だだ争論

だだの日記

2002年09月01日(日) 星野道夫が僕たちに残してくれたもの

1996年8月、星野道夫はカムチャツカで熊に襲われ急逝した。
もう彼の新しい写真や文章は見られない。
僕が星野を知ったとき、彼はすでに故人であった。
だから、もう新しい作品を見られないことを意識することはあまりなかった。
しかし、彼の『長い旅の途上』を読みながら、
そのことをしみじみと感じてしまった。

この本は星野の死後、遺稿集として書籍未収録の文章をまとめたものだ。
そのため文章スタイルがまちまち。
同じエピソードが形態を変えて語られていることも多い。
僕が読んでない星野の文章はもう限られてしまったことを実感した。

この本でも(他の本でも)繰り返し語られるエピソードがある。
今、僕たちが都会に暮らし満員電車に揺られている時でも
ヒグマが倒木を乗り越えながら力強く生きている。
そのことの不思議さ。すべてのものに
平等に同じ時間が流れていることの不思議さ。
彼は子どもながらにそのことを感じていた。
そしてそれは知識としてでなく、感覚として世界を初めて意識した瞬間でもあった。
「ぼくたちが毎日を生きている瞬間、もうひとつの時間が、
確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、
心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい」


彼の本を読んでいると、大きな時間の流れで物事を感じることができる。
そのことが、とてもうれしい。僕はアラスカに行ったことがないけど、彼のおかげで
そのことを意識できる。遅かれ早かれ、僕はアラスカに行くだろう。


今、思えば、先日これと似たような経験をしてきた。
北アルプスに一人で縦走してきたときのこと。
山中5泊。携帯も圏外。逃げることもできない完全な山の中。
今までの関係性が絶たれた完全な非日常の世界だった。
京都にいれば考えずにはいられない人間関係の悩みや将来のこと。
あるいは金銭面や恋愛問題のしがらみ。
そんなものとは無縁の世界。

一人だった。誰にも頼れない。毎日生きることに必死だった。
生きることだけに必死になれた。それがうれしかった。

日の出とともに起き、日の入とともに眠る。いたってシンプルな生活。
崖をよじのぼり、時には風雨にさらされながら
なんとかその日の宿営地に辿りつく。
景色がよかったわけでもない。天気に恵まれたわけでもない。

それでも幸せな気分に満ち足りていた。
夕食を食べ、太陽が沈んでいくのを見届ける。
テントのジッパーを下ろし、シュラフ(寝袋)にくるまる。
こうして一日が無事に終わったことに、僕は
(誰に対してというわけでもなく)感謝の気持ちを覚えた。
自然と、心から、そう感じずにはいられなかった。
毎日そんな気分に満たされ、その思いに、京都に戻った今も引きずられている。
一ヶ月前と大きく意識が変化したことに自分のことながら驚いている。


悠久の流れのなかで自然と向き合っていくということ。
生きていることの不思議さ、その裏返しにある死。
この本では、そんないろんなことがアラスカに住む人々や
その大自然と重ね合わせて語られていく。
そして星野は、人間と自然との関係をしばしば問いかけてくる。
僕はもっとそのことを考えつづけたい。

これだけではない。もっと多くのことを感じた。
でもこれ以上文章にならない。悔しいけど、この思いを
どう綴っていけばいいのかわからない。


「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。
たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人でみていたとするだろ。
もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちを
どんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、
いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって…
その夕陽をみて、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」


あれから随分の時が経ちました。
あなたは僕の変化を感じてくれますか?

* * *

2002年9月1日。
星野道夫『長い旅の途上』(文春文庫)、読了。

引用は同著『旅をする木』による。


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