★ 夏海の日記 ★

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2006年08月23日(水) すでに壊れていた うーたん1

昨日は凄い雷雨で、電車が止まってしまっていたらしく、残業で午後10:30に会社を出たにも関わらず、なぜか8:00の電車に乗って帰りました。
早く帰っていても電車が動いていなくて帰れないのであれば、残業して丁度良かったのかなとか、結果としては微妙な感じです。^^;

今朝、電車の中から空を見上げたら、ずいぶん空が高くなりましたね。
夏好きな私としたら、悲しいけど、すっかり『秋の空』です。
洗濯機がベランダに置いてあるので、毎朝必ず外に出なければならないのですが、空気が『秋』の空気になって来たねと、今朝teaと話していました。
teaは昨日の雨のせいじゃない?って言ってたけど、やっぱり空は秋だったよ。

昨日の朝、teaがエアコンの室外機の下に 羽化途中のアゲハを発見しました。
全部食べられたのではなく、避難できた子か、うちから脱走した子かなぁって少しの間見守っていました。
少し後に見たら見当たらなくなっていて、飛び立つ瞬間が見れなくて残念って思っていたら、室外機の横で羽化途中の状態でころがっていました。
片方の羽がたたまれたまま、もう片方は内側に折れ曲がっていて、でも棒にしがみつく力はあったので、木に移動させ、羽が広がってくれることを祈って会社へ出掛けました。
私よりも早く家に帰っていたteaに調子はどうかとメールで聞いてみたところ、羽が広がっていない状態だったらしく、
せめて蜜を吸えるようにと、咲いているバジルの花に移動させてあげたそうですが、今朝見たら、ベランダに転がっていました。
やっぱりダメだったのね。

蝶でないものから 蝶へと変体していくのだから、羽化は命がけの作業です。
そして 自然は厳しい。
いっぱいいた青虫たちのことも「食べられたのはムカついたけど、それで鳥さんが生きていくんだし、しゃーないわな」ってteaが言ってました。
「今まで飛んでいる蝶しか見ていないけど、羽化が成功しないものも多くいるのかもね」って、
今まで気に止めてもいないことがらが、昔から『自然に』営まれていたこといたことに気が付きました。
そうやって淘汰されて、増えすぎもせず、減りすぎもせず、他者を生かして自然は成り立っています。
人間も自然の一部なのにね。ある国では増えすぎちゃってたり、ある国では増えなかったりして、何だか不自然だね。

そう言えば、人間の移植手術には反対派のteaなのに、動物には激甘なのには笑っちゃいます ^^
愛犬のテト(ロングコートチワワ)を飼い始めて、「『親ばか』な人をバカにしてたけど、親ばか上等だー!」って開き直った姿は、とっても微笑ましいなぁって思って見ています。


さて、長くなりそうな話をば。

今朝の電車の中で、どうして母や妹は半年前の離婚の事実を現実として見ていないんだろう?って思いました。
夫が家にいない方が良い派の 母や妹や叔母にとって、うーたんはたぶん理想の夫で、
離婚理由はまた別の機会にゆっくりとお話しますが、どうして『たったそれだけの理由で』別かれるのか理解できないようでした。
私さえOKと言えば、金銭的にも何の苦労もなく(実は苦労だらけなのだが)『奥さん』として暮らしていけるのに。
どうして『その理由』で離婚に到るのか が、理解できず、
それは私が病気だから と考えるのがとても解かりやすく、だから病気さえ治れば復縁もありだと とても楽観視していました。
元さやに収まるのが、私にとって うーたんちにとって 一番良い選択だと。

私は怒ると何も喋らなくなります。
腹が立っている時に 言い返されると もっと腹が立つので、腹が立ったのが治まって冷静になってから、こういう風に腹が立っていたのだと冷静に怒って冷静に説明していました。
大抵のことは、相手に話す前に飲み込んでしまっていました。
相手に悪気があった訳じゃないしとか、怒るタイミングを逃してしまった等の理由で。
だから私がキレるのは、怒りが頂点に達しているときで、どうしてもこれだけは譲れないことがあった場合のみです。

私は何度もキレ、そのたびごとに話し合い、うーたんは(一応)反省し、離婚には到らなかったのですが、
理由は一つ。
そして、それは私が 譲れないことでした。

何年も 何年も 半年ごとにキレては 話し合い、別れ話をしては 「気を付けるから」の言葉を信じて離婚せずにいて
そうしているうちに私が壊れました。

最後の話し合いの時、友達に「もう何年同じことを繰り返してるの?何年経っても治らないよ」って言われ、
ここまで頑張ったんだから、もう良いだろう。10年以上もよく頑張ったぞ私!って思い、家を出る決意をしました。


私が家を出る前に、蟹さんのところで治療をしていた話は日記には書いたっけ?(詳しくは書いてない気はするが...ま、いっか^^;)
とても辛くて楽しかった日々。

3ヵ月半の間家を空け、家へ帰って来た時に部屋へ入って愕然としました。
3ヶ月半前の私が出て行った そのままの姿がそこにはありました。
何も動かさず
3ヶ月半前の散らかし具合そのままの部屋です。
とても気持ちが悪かった。
「物を移動させると、夏海が帰って来ない気がして 物を移動しなかった」
これが うーたんの答えでした。

3ヶ月半の間、私が出て行ったままの部屋で過ごすことが、うーたんに安心を与え、
私はいないけれど、何一つ変わらない部屋で過ごすことが、私がちゃんと帰って来ることに繋がると思って
3ヵ月半の間 その部屋で過ごしたのだそうです。
私には3ヵ月半の時が流れていて、この部屋や家では3ヵ月半前のまま時間が止まっている。
私にとって、その事実は恐怖でした。
未来に向かって歩き出したのに 無理やり過去に連れ戻されてしまったかのような恐怖を感じました。
蟹さんのところに行っていたことが 夢の中の出来事だと思ってしまうような感覚に陥る部屋への恐怖。


私が治療に行っている間に、親子でこれからどうするかを話し合いなさい。
私も頑張るから、うーたんも頑張って。

そう言い残して蟹さんのもとへ行きました。
それまでも何度も言っている台詞『親子で話し合え』と。

うーたんの父親は、工場を経営しており、それはとても小さな町工場で、
従業員は父母とパートのおばさんと うーたんと私の5人。
パートのおばさんは、私の母と同じ年でした。
工場の仕事は 重いものを持ったりして(私のように)腰をやられたり、
年を取って注意力がなくなると、指を失くす恐れがある仕事です。
実際 同じ仕事をしている他の工場でも、経営者の指があることはまれで、義母は左手の指がほとんどありません。
パートさんは安全器具を着けるのを嫌がり、その為に何度か指を挟んで救急車で病院に運ばれたことがあり、
(私に言わせると自業自得で、こちらが謝っていたのですが、かえって迷惑を掛けられている気がしていました)
指くらいで済めば良いけれど、安全に気を配らないと うっかり命を落としかねない仕事でした。
工場は 夏は室温が40度を軽く越え、冬はストーブを点けても とても寒く、
油でドロドロになるような仕事で、その上 社会保険に加入していない。

どうしてパートさんが辞めないで勤めていてくれていたのか不思議なくらいの劣悪な環境で、
だから、若い女性が同じように仕事をしてくれるとは思えなくて、
だからと言って、うーたんいわく、「男は 養えない」ので雇えない。
(いっぱしの男性へのお給料は払えないので、申し訳なくて雇えないのだそうです。)
つまり、義父母とパートさんが引退したら、私とうーたんと2人になり、
そして私は義母やパートさんほどの覚悟はないし、体力も気力もないから、2人のような仕事量は無理。
そうなると、うーたん一人で仕事をすると過程して、どれだけ仕事をしたら、どれだけ稼げて、
うーたん一人でもやっていけるものかどうか を 父親に聞きなさいと 何度も 何度も言って来ました。
何年も前から 何度も 何度も。

工場は 父親が起こしたもので、最初は一人で仕事をしていたので、その頃の話をして貰いなさい。
そうして、自分も一人でできるものかどうかを相談しなさいと。
人生の 仕事上の先輩である父親と きちんと話し合って、工場をどうするのか決めなさいと、何度も何度も言いました。

私は『手伝う』立場を崩さず、私が率先して工場を切り盛りする気などさらさらなく、
できるなら 早くつぶれて欲しいと思っていました。
私には工場の未来が見えず、それならば、早いところ違う職種を探さないと、どんどん年を取ってしまい、
年齢があがると再就職するのに不利になるよと 何度も何度も 何年も前から父親と話し合えと言って来ました。
少しくらい仕事をしなくても食べていける程度の貯金はあるから、仕事を探すなら早い方が良いよと。
工場は父母に任せてしまって、自分は就職活動をしなさいと。
父母が引退してしまって動けない状態では、再就職は難しいよと。
何度も 何度も丁寧に説明をし、工場をどうするのかを父息子で話し合いなさいと。
経営者と 次期経営者が きちんと話し合って、双方ともに納得いくようにと思って、話し合いなさいと何度も言ってきました。


もともと うーたん親子は、私がいないと会話のない親子でした。
母親が一人が有頂天にハイテンションで くだらない話をして、
それはまるでTVやラジオのように『音の出るものがそこにいる』かのように一人で勝手にお喋りをして、
それに対して誰も反応せず 会話として成り立っていない不思議な状態でした。
喋っている人はいるのに、お通夜の席のような夕食の時間を毎日続けていました。

バブルがはじけ、お金がまわって来なくなった時も、
息子であるうーたんには話を一切せずに、ある日 私とうーたんを自分たちの部屋へ呼び出して 
今の現状の説明とこれからのお金をどうするかを 義父が宣言しました。
私が間に入っていないと、何も話ができない親子でした。
「うーたんに言っても頼りにならないから、あんたに言っておく」と、私に話すことはあっても。


蟹さんのもとで治療の日々を過ごし、少しは頑張ってくれたのかと期待していたのですが、
部屋に入った時に 『何も変わっていないこと』に愕然としました。
この部屋は この家の象徴です。
そして、私がいなかったことを『なかったこと』にして、これまでと同じ日々を過ごそうとしている親子がいました。
まるで食事の途中で席を立った人を待っていたかのような
帰って来たね。さぁ続きを始めましょうって感じの 怖さでした。

「夏海がいないのに そんな大事な話はできない」と 義父はのたまったそうです。
そして その言葉に納得し、食らいついていけない息子が 私の夫でした。
何の話し合いもできず、工場の未来の展望もない。
先送りしたところで 同じ結果が待っているのだとしたら、私は戦うタイプで
うーたんは できるだけ戦わずに 状況が好転するのを待っている『受け』のタイプ。
じゃー私が率先して 工場を潰してしまった方が良かったのか?
今でも 私の選択は間違っていなかったと思っています。
工場は 父親が起こしたもので、その工場を継ぐのは 一人息子であるうーたんで、
経営者と後継者が これからどうするのかを話し合うのは当然のことで、
それに対して 何も知らない私が口出しすべきことではなく、
よく義父が「お前ら若いもんで話し合え」と言っていた『話し合い』はすでに私達の間ではついていて、
うーたんが決断を下して 父親に言えなかっただけなのだから。

長くなったので、また明日ね。


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