衛澤のどーでもよさげ。
2010年04月06日(火) 雑感。

気持ちはいつも一九歳前後(曖昧)の衛澤です。気持ちと言うか、考えている内容と言うか、能力値と言うか、やっていることと言うか、その辺りがまだ成人前です。
そんな私も本日二度めの成人式です。

四十路だよー。来年はバカボンのパパと同い年になるよー。

一〇年前、即ち三〇歳になるときというのは、「三〇歳」という年令に憧れを持っておりまして、「やっと三〇歳になった」とか「人間三〇歳からが本番」とか考えておりました。
さて一〇年後。
正直申しまして、四〇代ってちょっと厭だなーと思っています。これから一〇年くらいかけて四〇代を好きになっていくんだと思います。どうでもいい話ですが、いま「40だい」と打ち込んで変換したら真っ先に「四〇(代)」って出ちゃってやっぱりちょっと厭だなーと思いました。「成人」は「聖人」だったしね。私は聖☆おにいさんか。

四〇歳になったから、という訳ではなく、今年に入ってからよく考えるようになったのは、「苦」はあった方がいい、ということです。「苦」のない人生は、きっとつまらない。
勿論、「苦」は苦しくて厭です。でも苦しいときの方がいいフレーズを思いついたりします。断片的に、ですが。私の場合、苦しいときは苦しいばかりでまともに文章は書けないので、誰かの台詞の一ツであったり、天気や風景や心象の描写であったり、部分的なものがぽろりと出ます。
そうやって時折洩れてくる言葉は、「苦」の真っ只中にあるときのものの方が深かったり重かったり厚かったりするので、もの書きとしても多少苦しんだ方がいいんだろな、と思ったりしています。
「苦あれば楽あり」と言いますが、「苦あればこそ楽あり」なのでしょうし。

苦しい方が好き、という被虐的なことを言っているのではありません。私とてやはり楽な方がいいし愉しいことが好きです。しかし「楽」に過剰な期待はしないようにしたいと思っています。「楽」は所詮「苦」の合間に過ぎないのだし。

二〇歳、三〇歳と下一ト桁が〇の年令になるたびに「これから一〇年かけて(書きものの)基礎を学び直そう」と考えました。
四〇歳のいまもやはり同じことを考えています。
おそらく、まだ生きているなら五〇歳になるときも六〇歳になるときも、同じことを考えるのだと思います。そうして私は基礎ばかり勉強していくのだと思います。

「元気ですか」と問われたら「そこそこ」とか「死なない程度に」とか、そういう答え方しかできないこの頃ですが、新たに病気が出てきたり持病が少しずつ悪化したり、四〇代とはそんな年頃なのでしょう。それでも、死なずにいられる限りは、まほらであろうとも、奈落であろうとも、己れで思い己れで見たことを書いていくでしょう。

【追記】
何とうれしいことでしょう、F.Koshiba氏(わんだらP)の新曲が本日公開されました。
「暁の夢人」、ヴォーカルはがくっぽいどです。


胸にじわじわと染み込んでくる、せつなくかなしいうたです。
この曲は「待宵の歌姫」に続く曲で、「待宵の歌姫」が女性側、「暁の夢人」が男性側視点の歌詞になっています。
「待宵」(月)と「暁」(夜明け)が対になっているなんて、洒落ているではありませんか。

新しい曲を誕生日に拝聴できるなんて、とてもとても貴重な贈りものを頂いたようで、うれしくてなりません。


エンピツユニオン


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