ぼくが生まれたのは一九七〇年四月のこと。万博開幕の日から三週間ほど経った日に、ぼくは生まれた。だからぼくにとっては「万博」と言えば生まれ年の大阪万博のことであって、昨年開催された万博は「愛知博」だとか「環境博」だとか言って貰わないとそれと判らない。
大阪万博と言えばそのシンボルは「太陽の塔」。ぼくが生まれた年に大阪府吹田市の千里丘陵に現れた巨大な塔の、その異様なまでの存在感は、万博の記憶がなく、一度も万博記念公園を訪れたことがないぼくでさえ記憶の底にこびりつくような憶え方をしている。同じ年に生まれた、特異な存在だ。その生みの親は、「岡本太郎」という人である。
ぼくは「岡本太郎」という人のことは「本業は芸術家の、テレビによく出てくる変わった人」という程度にしか思っていなかった。しかし、一九八五年前後に或る人の随筆に「岡本太郎先生が『芸術は、巧いではいけない、きれいではいけない、人が見て「何だこれは!」と思うものでなくてはならない』というような意味のことを何処かで仰っていましたが、これは至言だと思います」と書かれているのを読んで、「岡本太郎先生という人はすごい人なのだ」と思うようになった。
このぼくが又聞きした言葉は太郎先生の「
今日の芸術」という本に著わされている「今日の芸術は、うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」という言葉を指しているのだということは、後も後、つい最近知ったことだ。
その後、太郎先生の作品を折にふれ見ることになるのだが、何れの作品もすごいのである。「すごい」としか言いようがないのだ。何処がどんな風にどうなっているからすごいのだ、と説明できない、と言うよりは説明している場合ではない「すごさ」を、作品のそこかしこから発散している。おそらく太郎先生の作品で最も多くの人に知られている「太陽の塔」を想起して頂ければ、このことは御理解頂けると思う。
その「太陽の塔」と対をなすと言われる巨大壁画「
明日の神話」は、メキシコで描かれてから三〇年以上も行方不明になっていた。それが昨年発見され、日本に運ばれ、ほぼ一年掛けて損傷部分が修復され、今日から我々が自由に見られるかたちで公開されている。昨夜は除幕式が行なわれ、それを中継する特別番組が放送されていた。ぼくも見た。
昨夜放送された特別番組は、「明日の神話」が描かれ、その後行方不明になり、昨年やっと発見されて修復を施され、公開されるまでの経緯を紹介するとともに、太郎先生を改めて紹介する映像も流していた。それによると、「岡本太郎」は、岡本太郎が岡本太郎の意志によって岡本太郎として自立し、岡本太郎であり続けようとしたが故に「岡本太郎」であった、とのことだ。
この同じ名前が何度も出てくるくどい文章が一体何を言わんとしているのかを説明するには、先ず「岡本太郎」がぜんたい何であるのかを説明するところからはじめなければならないが、それをするためにはおそらく文庫本一冊分以上の文章が必要になるだろうから、ここでは省かせて頂く。手っ取り早くかつ愉しく知りたいと仰る方は「
なんだ、これは!」という判りやすいWebページがあるのでそちらを一ト通り御覧頂きたい。
特別番組の後半で「Be TARO!」を叫ぶ人が複数見られた。「TAROになれ」、「TAROであれ」ということではあるが、これが「岡本太郎を模倣せよ」という意味では決してないことは、太郎先生をよく御存知の方や昨夜の特別番組を御覧になった方はよくお判りのことと思う。己れが己れとして己れであり続けること、死を身近に置いて生をよろこぶこと、何者をも拒まず何者にも同化しないこと、正も邪もなく表現を行なうこと……そういうことを「Be TARO」という言葉は表しているのではないだろうか。特別番組に御出演の天海祐希さんは「自分になること」と表現なさっていた。
除幕された「明日の神話」を、ぼくはまだテレビ画面越しにしか見てはいないけれど、眼にした瞬間にぼくの「Be TARO」ははじまってしまったのだと思った。縦五.五メートル、幅三〇メートルの巨大な壁画は、人の一生を容易く動かしてしまう大きなうねりを持っている。すごい。一見しただけでその内包する発散する膨大な力に言葉よりもため息よりも先に涙が出てしまったのは、ピカソの「ゲルニカ」を教科書で見て以来のことだ。
「明日の神話」は東京汐留で八月末日まで一般に公開されている。行けば無料で見ることができる。近隣に赴く予定がある方、在住の方はぜひ直接御覧になることをお勧めする。ぼくも何とか機会をつくって行きたいとは思っている。
ぼくは「明日の神話」修復のための寄付を、「
TARO MONEY」を購入するというかたちでさせて頂いた。金額はささやかなものだけれど、自分が最も大切にしている「書く」という行為によって得た金銭が「明日の神話」のために使われた、つまりは「ぼくが書く」ことが現在公開されている「明日の神話」の中に生きているのだと思うと、とても有難いし、うれしいし、愉しい。
こうしてTAROの間近にいることをよろこびながら、ぼくはぼくの「Be TARO」を実現させたい。
【今日の漠と】
洋の東西を問わず、サッカー選手には「濃い」顔の人が多いように思うのだが、気のせいか?