2005年12月08日(木) あなたよあなた。
ぼくは幼い頃からかなり卑屈な人間で、「他人のために何かできる人になりましょう」とか「自分だけがよければそれでいいのではなくほかの人のことも考えましょう」とか、そういう道徳の教えが好きになれなかった。とにかく自分が一番大事で、決して自分のことが好きだった訳ではなくむしろ大嫌いで、だけど自分を守るのに必死で「他人のことまで考えてやれるほどエライ人間じゃねえんだ」なんて思っていた。
これは遠い頃の話ではなく、つい最近までそうだった。いまでも「他人のことを考えるのは、自分の足場が安定してから」という考え方には変わりはない。この考え方については鈎括弧の中を読んだだけの人には誤解を与えてしまうかもしれないけれど今日のところは省略しておく。
その基本的な考え方は変わらないけれど以前には思いもしなかったことを、近頃はしてしまうことに気付いた。
何の理由もなく、見も知らぬ人の倖せを、無意識に祈っていることがある。
そんなことは博愛主義的宗教にどっぷり浸かっている人か、カミサマに等しいほど心が広い人か、そうでなければ悪意を持った人がパフォーマンスとして考えることだと思っていた。
だけど、ここ暫くの間にぼくは何度か意識しないうちに、ぼくがよく知っている人にもぼくが出会ったことはないけれど確かにいま何処かにいる人にも等しくよいことがありますようにと、何に対してと言わず願っている。
こういうことをわざわざ人目に触れるところで言うと、「他人の倖せを願うなんて、どうだ偉いだろう」と威張っているように思う人もいるかもしれない。でも、それも構わないと思う。そう思った人にもよいことがありますように、といまは思える。
伝えたいのは、そんな風に「誰かによいことが」と思っているときのぼくの気持ちが、とても穏やかでとても愉しいということなんだ。
勿論、愉しくなろうと思ってそういうことを考える訳ではない。大抵はぼんやり夜の空の下に立っていたり、そんなときに「ぼくはいまひとりでここに立っているけれどこの空の何処かの下にはきっと沢山の誰かがいて、明日もがんばるぞとか明日が来なければいいとか考えているんだろう。その誰もに等しく、小さくてもよいことが訪れるといいな。誰かがうれしいとぼくもうれしいよな」などと、うっすらと思っている。そのときというのは、おもしろい物語に引き込まれたときとも、すばらしい造形に触れたときとも、恰好いい音楽に浸っているときとも違う愉しさを感じている。
たとえるなら、とびきりおいしくて温かいものを食べてお腹が一杯になったときのようなゆったりとした心持ちや、転寝をしているときの寝入り端のような心地よさだ。他人の倖せを願うことがこんなに愉しいことだなんて、数年前のぼくには想像もつかなかっただろう。誰かの倖せを思うことが自分の倖せになるなんてほんとうに考えたこともなかった。
こんなに愉しい気持ちにさせてくれる、誰だか判らない何処かにいるあなたよ、有難う。
あなたよあなた。
ぼくが会ったことがあるかもしれない、
これから会うかもしれない、
会うこともないかもしれない、
いまぼくの眼の前にいないあなたよ、
どうか安らかであるように。
ぼくが知らないところで
ぼくと同じ星を見ているあなたよ、
ぼくと同じ風に吹かれているあなたよ、
ぼくと同じ波にさらされているあなたよ、
どうかさいわいでありますように。
どうかあなたにもうひとつ倖せがやってくるように。
【今日の確信】
やっぱり画面上の校正は当てにならないよー。