衛澤のどーでもよさげ。
2004年12月12日(日) 何だかんだ言って。

「ハウルの動く城」をレイトショー(1200円)で観てきました。
まだ観ていなくて観るか否かを迷っている方へ。御覧なさい。もしも観賞料金を全額支払ったとしても最初の15分でそれは元が取れてしまうから。「物語とはこうやって組み立てるものなのだよ」という御手本を見るような導入部。そして、「掴み」にもなる「動く城」登場場面。ここだけでペイします。但し、これは「アニメーション」を見たい人のみ。ただ愉しければ何でもいいという人には私は敢えて勧めはしません。

公開前からいろいろとやっかみをも含んだ映画評が並べられていましたが、宮崎駿監督はいま日本でまともにアニメーションを制作している数少ないうちのひとりなのだと改めて思いました。「これがアニメーションなんだよ!」と諸手を挙げてよろこびたい場面が次々と出てきてとてもうれしかったです。

これから御覧になろうという方に。
映画の内容に関する事前情報は可能な限り仕入れない、真っ白の状態で御覧になることをお勧めします。粗筋もキャストも御存知ない方がよろしいです。原作を読むなんて以ての外です。原作を読むのは映画を観てからでも遅くはありません。パンフレットも観賞後にお読みになる方がよいです。
それから、御覧になる劇場は音響設備のしっかりしたところを択ばないと観賞料金はペイしないかもしれません。ドルビーサラウンド6.1chは必須です。SEもBGMもすばらしい仕上がりです。

宮崎監督ファン、アニメーション好きの間でとてもとても心配されていたハウルの声ですが、これを理由に観るか否かを迷っているのなら、私は観た方がよいのではないかと思います。誰が声を当てているかは忘れて。声優への偏見がこの作品の評価を下げてしまっている側面もあるかと感じました。
公開前の広告宣伝の段階で「ハウル=木村拓哉」を広めすぎたのだと思います。むしろこれはひた隠しにして、スタッフロールにすら名前を出さずに、「ハウルの声は誰が演じていたでしょう」というクイズキャンペーンなどを張った方がより効果的だったのではないかと思いました。木村くんへの偏見がこの作品の評価を無駄に下げてしまっているのではないでしょうか。
「ハウル=木村拓哉」を忘れて御覧になってください。まったく気になりませんから。

それより、御覧頂きたいのはやはり城の動きなのです。
幾らデジタル技術が進んだからと言ってもやはりそれは万能ではないのだと言うことが判りました。とてつもないハーモニクス処理です。「ナウシカ」の王蟲などもこの処理技法で動かされていましたが、規模が違います。4本の脚が一歩踏み出すごとに轟音(この轟音も多重奏的に複雑に音が絡み重なり合っていてすごい!)を響かせて巨大な城が数多の「部品」をひとつひとつ重々しく揺すって稼働させて地面の上を移動するのです。巨大さ。重量感。「動いている」こと。これを見たら公開時期が遅れてしまったのも納得できてしまいます。

それから、風景。特に水の描写。うつくしいです。
そして「飛ぶ」場面。宮崎アニメは「飛んで何ぼ」です。飛ぶ場面のない宮崎アニメはおもしろさ半減です(だから「もののけ姫」はあまりおもしろくなかった)。あの「飛行感」とでも言いますか、ほんとうに重量のあるものが重力や引力の呪縛をものともせずに宙に浮き上がって推力で進んでいくさまはほかの映像作家には表現し得ないものといつもながらに感嘆します。
今作もおもしろい「飛ぶ乗りもの」が登場しました。宮崎作品に登場するスチームパンク風のメカデザインも味があってよろしいです。

この後はネタバレを含む内容になりますのであぶり出しにしておきます。事前情報をより少なく、という方はあぶり出さないように御願いします。

城の挙動や風景の描写、水の質感などアニメーションとして瞠目する部分は、それはそれは沢山あるのだけれど、何より驚かされるのは主人公ソフィだった。18歳の少女ソフィは突然に90歳の老婆になる呪いをかけられてしまう。素朴だが凛とした背すじの伸びたソフィが、ちょっとした傲慢さや大胆さを備え持った、腰の曲がった老婆になってしまう。70や80でなく「90歳」という平均より長寿であることが必要だったのだろうなと思う。あの腰の曲がり具合いは尋常ではない。

その腰の曲がり方は絵面として重要な要素で、城の中を掃除する場面を境いに老婆姿のソフィの腰は次第に老婆の姿のままで真っ直ぐに近く伸びていく。「ああ、動きまわるようになって腰がしゃんとしてきたな」と思う頃に気が付かないようにしかし気付くと吃驚するように仕掛けがしてある。ソフィの顔から老婆の皺が減り少女の顔つきに少しだけ戻ったりまた老婆になったりを繰り返すのだ。

それは明らさまなモーフィング処理ではなく、ようく見ていないと判らないくらいの変化をおそらくは動画処理によって見せているのだとは推測するが、少女と老婆の間を幾度となく揺れ動く面差しに驚かずにはいられない。
パンフレットによると宮崎監督は「ソフィは18歳から90歳までをひとりで演じられる人に」と仰ったらしいが、その理由はこの描写でよく判る。18歳と90歳が明確に区切られている訳ではないのだ。その間を何度も何度も揺れ動いて、その揺らぎを微かな変化で描写しているから声にもその変化が必要なのだ。18歳と90歳で声優を変える訳にはいかない。倍賞千恵子さんはみずみずしい少女も肝の据わった老婆も同じ舞台で澱みなく演じなさったと思う。
この作品で一番見なければならないのはハウルでも城でもなく、ソフィなのだ。

ハウルのキャラクタ性に幾らか疑問が残る。
「美形として描いた」、「美形の声をイケメンアイドルが演じる」ことが目玉のように公開前広報では言われていたが、それに何か意味があったのだろうか。少なくとも私はその必然を感じなかった。この要素の眼目は「少女の夢を実現する」ことなのだろうか。

戦火は近くまで来ているけれど取り敢えず日常を営める世界で地味に家業を継ごうとしている少女の前に突然美形青年が現れて一緒に空を飛ぶ。その現実離れした出会いから、醜くなった姿で「報われなくてもいい」というような崇高な気持ちで美形青年に尽くしてゆく過程を経ると青年は少女の価値に気付き、少女の想いは報われ、少女にかけられた呪いも青年にかけられた呪いも解けて、ふたりは結ばれハッピーエンド。大雑把になぞると「ハウルの動く城」という映画はこういうおはなしだった訳で。
この側面だけを見るとほんとうに「女の子向け」なのだと思う。

しかしその扱いをした場合、ハウルは偶像でしかないように感じるのだ。生きて努力して苦しんで存在するようには感じられない。つまりアイドルっぽい。魅力的な人物とは思えないままに観賞を終えた。決して厭なキャラクタではないけれど魅力的でもない。言ってしまえば物語に必要なコマと言うか記号と言うか、そんな感じだ。
「弱虫の魔法使い」ということだったが、「弱虫」であることも「魔法使い」であることもあまり強く感じられなかったし、必要性も感じなかった。言ってみればフレーバーでしかなく、これは宮崎監督自身がハウルという青年像を消化しきれないままで描いてしまった結果なのかも知れない。

もうひとり勿体ないのがかかしのカブ。謎めいて謎めいて、その結果ぽんと呪いが解けて王子様でした、とは拍子抜けするしかない。原作でそうだったのかもしれないが、彼はかかしのままの方がよかったのではないだろうか。「王子様」という記号が必要だったのだろうか。そのようにも思えないのだが。

ハウルにもマルクルにもカブにも荒地の魔女にも、ソフィは「平等の」愛を以て接していたと思う。それは「家族愛」や「人類愛」と言えそうなもので「恋愛」とは別のものではないか。だとしたら、この作品はラヴストーリイとしては決定的なものを欠いている。恋愛ものなのか反戦ものなのかどっちつかずになってはいなかっただろうか。身も蓋もない言い方をしてしまえばソフィは「いい人過ぎ」て現実味を欠く人物像でもある。


と、あぶり出しの中では苦言を並べもしましたが、観る価値のある映画であることは間違いないと思います。

もうひとつ特筆すべきは「街の活気」。宮崎監督作品には街に住む人々の息遣いがいつも活気強く描かれていて、それを見るだけで自分も今日一日をがんばろうという気になれる。庶民のヴァイタリティ、それが街の描写には溢れています。
ちょっとマニアめいたことを言うと、軍人さんが乗り込んでくる場面で、ちゃんと市街地の軍人さんは陸兵で港町の軍人さんは水兵だった。こういう芸の細かさも好きです。

ただ、ね。
広告のコピー。これは確か糸井重里さんが担当されたものだったと記憶していますが……コピーが秀逸すぎて過剰に期待をあおっていると思います。このコピーほどの感動は本編からは得られなかったように私は思いました。

予告で見た気になる2篇。
「鋼の錬金術師」。まだ予告篇用の作画すら上がっていないのね……TVシリーズのバンクを繋げて予告編にしていました。……次の夏公開、だいじょぶか。
「ULTRAMAN」。音楽はTAK MATSUMOTO。「ウルトラマン」としてどうか、とか、特撮としてどうか、などは差し置いても音楽を聴くためだけに1800円出してもいいかな、と思うくらいのギターの唸り具合いでした。ドルビーサラウンドでうっとり。でもウルトラマンはハムの人。


エンピツユニオン


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