浅間日記

2006年12月14日(木) 手を使え、足を使え、頭はそのために使え

ようやく定点に戻る。

先週聴いた佐藤初女さんの言葉を、頭の片隅でいつも反芻していた。
旅がらすの最中も、新幹線の中で考えた。

佐藤初女さんは、青森の弘前にある小さな家を開放して、
何かに苦しんでいる人と寝食を共にするということをやっている。

佐藤さんから呼びかけることなどはしていない。
でもとにかく、どこかで話を聴きつけて、
全国津々浦々から色々な人がやって来るそうだ。

そういう老若男女を、名前も聞かず暖かい家に招きいれ、
手塩にかけ丁寧にこしらえた食事を出し、
黙ってその人の話を聴いて、布団を並べて眠る。

それだけのことしかしていません、と彼女は言う。
しかし、それだけのことに救われた人は多いのらしい。



丁寧に作った食事を美味しくいただく。

「人間は命ある存在だから、食べることを疎かにすると、徐々に色々なことが難しくなります。食べることは命の移しかえなのです。」と彼女は言う。

このことは、何十年も食によって苦しみから人を救ってきた佐藤さんの、
「経験から導き出された確信」なのだそうである。



人間は、悲しみや絶望を感じる不思議な生物だ。
そうした生物としてのオプションみたいな感情や思考は、別に悪くない。
それは、優れた芸術文化や哲学の源泉となるし、
何よりその優れた生物オプションの中には、喜びや希望だってあるのだ。

けれど、不幸にして感情や思考に心の自由を奪われてしまう時もある。
そのときは、素直に生物としての第一機能に戻るのがよい。
手を使い、足を使い、そのためにだけ頭を使えばよい。

「食べて命をつなぐための作業」にその労力をそそぐことができたら、
それは、生物として寸分の隙もないほど合理的なことだ。
だから、人間はそのことを幸せと感じてよいと、私は思う。

もし、そうしたくてもできないほど疲れてしまった時は、
やっている人の傍で、じっと眺めていればよい。
子どもみたいに台所でうろちょろしていればいい。

彼女の言う「経験から導き出された確信」について分析するのは愚考にすぎないけれど、
自分の言葉で説明する必要があるとすれば、そういうことなのかなと思う。

2005年12月14日(水) 


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