「人の座標はどう変わったか」というタイトルで、辺見庸氏の連載記事。 昨年12月に結腸がんで入院、手術しているから、これはその前に書かれたものかもしれない。 そのせいか、文章に重たい覚悟と決意を感じる。 もっとも、この人は常にそうした覚悟の下に文章を書く人である。
失念しないように、要所を以下抜粋。
「…消費と投資がもてはやされ、射幸心を持つも煽るも罪悪視されなくなっ た。以前からそうだと言えばそうだが、人が生きていく価値の座標が目下、 劇的に変わりつつあるのは疑いない」
「言葉という言葉にはいやらしい鬆(す)が立ち、欲動が体内から湧くので なく体外から操作されている感じ。怒りや哀しみの情動が直接性をなくし、 自分と世界が分断されているような不安。万物商品化の世界では人間存在が 先細り、人はひたすら資本の使途としてのみ生かされる」
*
すっかり安っぽく、資本の使途として生かされる、人の存在。
人間の、自己家畜化現象である。
辺見氏は、「自殺という死の衝動」という、生きることの裏側にも触れながら、 ある歴史のベクトルに向って人は「標ない道を倒れるまで前へ前へと」行くしか選択肢はなく、もはや楽園へもどることはできないのだ、と結ぶ。
*
生きることの意味を考えることが難しいのは、 それを「生き続けながら」考えなければならないからだ。
「生きる理由がわからなくなったので、今日から一週間中断して、じっくり考えてみたいと思います」ということは、原則できない。 人気アーティストの、活動停止宣言のようにはいかないんである。
*
人は、生きる理由を−生きる喜びを−、生き続けながらみつけなければいけない。
哲学家がするような、高邁な理由など探している暇はない。 辺見氏曰く、「政治の幅は常に生活の幅より狭い」のであるから、 生活に根ざした、シンプルかつカジュアルなのがいい。
そしてそれは多分、「自分の手で何かを生み出すこと」でなければ駄目なのだ。 消費者としての生きかたが、人間の存在を危うくしたのだから。
*
楽園を追われ、楽園へ戻れないのなら、私は楽園へ向かおうと思う。 華やかでも楽しくなくてもいい。前のところと同じでなくてもいい。 追われた一つが全てではないと思うのだ。
|