近くの寺にて定期開催される、T住職版「徹子の部屋」を傍聴しにいく。
今日のゲストは三春町の住職、かつ作家の玄侑宗久氏。 「中陰の花」という作品は私も好きで読んでいた。
魂は存在するか?死んだら何処へ行くか?をテーマに、談義。 玄侑氏は、物理学者や脳科学者の言葉を借りて、魂の現象を語っている。
ただ残念ながら、小さじ1杯分ほど、科学的な話の引用が多すぎて、 「宗教者が科学を拠りどころにしてどうするんだ」という後味を残してしまった。
確かに科学と哲学と宗教は、先端のところで不可分になっていくだろう。 しかし、だからといって、 宗教の始祖というものが大昔に会得した壮大な気付きのようなものを、 科学的データを拠りどころに自分のものとするのは、 なんだかそれは、宗教的なドーピングではないかと思うのだ。
それが玄侑氏の本意でないことは、彼の作品を読めば分かるのだけど、 衆生の民へあの世を説くことに向って、何故そんなに邁進するのかが不思議なのである。
それに私は、例え釈尊が「五感が全てではない」と、そう言ったとしても、 超常的な感覚を追い求めたりすることは無意味だと思っている。
なぜ人間には-私には-五感しか備わっていないのか、 犬のように視覚で温度が認識できないのか、 その意味を考えながら生きていくことの方が大切な気がする。
人間が管理不可能なものは、管理不可能なままにしておけばよいのだ。 その状態に耐えられる者にだけ、祈りが存在する。
2004年10月29日(金) 陛下万歳
|