時々日記な雑記帳

2007年02月01日(木) いま、やっとゆっくりと

***

何故そうしてしまったのか。


今考えれば、理由はわかるのだけれども。



自身の表現の自由というものを、他でもない自分自身で封じて押さえ込んでいたという事実。


そう。
多分、きっと、押さえ込んでいた。


自由に何かをすることを、我慢して押さえ込んでいたのだ。


誰も「してはいけない」などとは言ってはいなかったのに。


けれども、周りの表情や雰囲気を見ながら動きやすい自分を創り上げようとしていた自分は、恐らくその過程で、一番無難で広く受け入れられやすいと思われる自分自身の表現方法を、選んだのだ。

自分の気持ちが、本当は何に夢中になるのかも見ないようにして。


けれど、その時の自分は確かに、自分の望んでいたことをしていたのだ。


欲しかったのは、広い視野と人間関係。

様々なものを見たくて、様々なものを知りたくて、
様々な人間と仲良くなって、触れ合いたかったんだ。


そのためには、自分を変える必要があると考えたのだ。


自分自身の考えを持つことは必要だけれど、本当の意味で他人の事を見ることの出来る心構えとか、振る舞いとかもなくてはいけなくて。

主観的なものの見方だけではなく、客観的に物事や自分を見ることが出来るようにもならなくてはいけなくて。


そうやって自分が変わっていく過程は、実に楽しかった。


幅広い世界や人間と触れ合うことで、フィールドが広がっていく。

今まで見えなかったことが見えて、知ることが出来ていく時間。


新鮮で、楽しくて。

嬉しくて。



けれど、常に感じていたのは、自分の内側にはまだ見ようとしてはいない部分がたくさんあること。


それは、まるで深い深い海が広がっているような感覚だった。


自分のことなど、自分自身でもよくは判っていないのだ。


でも、きっとそれは見ようとはしていないだけで。




自分の気持ちが反応する物事を拾い上げていった時、
かつて、自身が押し込んだものが出てきた。


あのとき、きっとそれを続けていたら、どうなっていたんだろう。


もしかしたら、何も見えずにいたかもしれない。

在るのは、自分とその世界。


けれど、自分はそれを拒絶した。

一旦離れることで、自分自身を組み立てることにしたのだ。



だけど。


結局、思えば「それ」を求める気持ちは、いつもあったんだと思う。

例えば、そのひとつ。

気付けば自然と手は動いていたし、特に何をすることもなく、その分野の能力は上がっていっていたものがある。

そして必ずと言っていいほど、その能力が自分の中に存在していることを何処にいても、誰かに見つかってしまうのだ。



例え、自分が我慢していたことでも。

結局は、離れられないんだと思う。

この身の内に深く沈んでいる「何か」の一つ。

きっと、まだコレはたくさんあるんだと思う。



周りも時間も忘れて、没頭してしまうもの。


それを「自己表現」の一つだといえば、そうなのだろうけれど。

自分の中には、その「自己表現」の手段が、まだまだたくさんあるんだと思う。


そして、自ずとそれを求めて、自然と手を伸ばしてしまうんだろう。



でも、昔それをしようとしなかったのは、自分の置かれている状況や自分自身を組み立てているものが、望んでいる形で自己表現できるものではなかったからなんだろう。


でも。

きっと、今なら。


今なら、出来る気がする。



我慢したことで、やっと自由に動けるんだ。


自由に、表現できると

この気持ちがやっと、自分を許した気がする。



自分の中で、制限していたことが外れて、
ようやく動き出せる。


他でもなく、自分が押し込めて封じていたんだ。


でも、それは準備のために
必要だったことなんだ。


自分はまだまだ組み立てて成長していかなくてはいけない人間だけれど、
最低限のある程度な形には組み立ってきたのかもしれない。


だから、やっと自由に表現していいよと。



どこに、そんな教育者がいるのだろう。

周りはむしろ、その表現の自由は許していたはずなのに。


自身のなかに存在していたのだと思うと、ぞっとするけれど。




さあ、これからどんな世界にしていこう。


新しくて、懐かしい、世界へ。


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