■ 某突起名の人生つぶやき日記 ■

某突起名の独り言。
あくまで独り言ですので・・・まぁ、お気になさらず。

2002年08月12日(月) 残骸・��












両親は、姉たちが十一、私が八つになる年に離婚している。





















父親は、子供が嫌いだった。










活発で丈夫な姉たちに、いたずらをしたと言って手を上げたり、

騒いでいてうるさいからと辞書や置物を投げつけたりするコトは日常茶飯事。





カーペットを汚して、始末をしておかなかったからと、

パンツ1丁に姉を剥いて、外に放り出すコトもたまにあった。





オンオンと大きな声で泣く姉達を、さらに殴ったり蹴ったりして

母親のヒステリックな声に止められている光景も

私の記憶の中にははっきりと残っている。





母親が暴力を止めた後、必ず父親が姉をどうやって育てたんだと詰り、

決まってそのまま長い口論が続いていたのも覚えている。

・・・だって、口論の最中は、私は常に母親の膝の上だったから。





父親の声に怯えて母親の膝の上から逃げ出そうとしても

私の胴に回された手が緩むことは無かった。





怒りで荒れ狂う父親に、気丈に言い返す母親の膝の上に居るというコトは、

ダイレクトに正面から怒りで真っ赤になった父親の怒鳴り声を浴びるコトになり、

子供の私は泣くコトもしないで、ただ父親の罵声や母親の叫び声を聴きながら

私は荒らしが去るのを、喧嘩の真っ只中で待つしかなかった。





私にとっては非常に過酷な状況だった。

・・・が、今思い返すと、母親は私の小さな存在に縋って

父親に反論する勇気を奮い起こしていたような気がする。

母親は父親に怒鳴られる度に、反論する度に私の存在を確かめるように

震えながら私を抱く手に力を込めていた・・・と、おぼろげに記憶している。






その口論はいつも父親の「もう結構!」という激昂の怒鳴り声で終わり、

父親が足音荒くその部屋を出ると、次いで必ず向こうの部屋で

父親の怒声と姉たちの悲鳴、祖父母がオロオロと父親を宥める声が聴こえてくる。





それとほぼ同時に頭上の母親からシクシクと声を殺して泣く音がして、

ああ、泣いているんだなぁと思って、子供の単純さで

「お母さん大丈夫?」と、上に向かって声をかけるときつく抱き竦められ、

私は母親の腕の苦しさの中で、はて、どうしたものかと思案にくれていた。





思案の末に、まず母親を慰めてみて、この手を緩めるのが先決だと結論を出し、

自分の頭上にある母親の頭を撫ぜてみたりしたコトもあったが、

そうすると母親はなお激しく泣き出して私を抱く手を強めるのが分かったので

無駄だと悟ってからは大抵は大人しく、母親の気の済むまでじっとしていた。





お姉ちゃんにマキロンしないとなぁ・・・。





子供なりに、親のしたコトに収拾をつけようと

真剣にそんなコトを考えながら母親の胸に収まっている私は、

今思うと姉の傷はマキロンなぞでは済むような傷では無く、

とんでもなく呑気な子供だったなぁと思う。











私の記憶を裏付けるように、今でも姉たちの顔には父親の虐待の跡が

うっすらと残っている。





自分たちの最大のトラウマは父親であると言って憚らない姉を見て

なんだかなと思いつつ、姉の顔を見る度に当時の光景を思い出して

当時の自分の拙さと父親の暴君加減に、なんとも言えない苦い思いをするコトは、

父親と生別して満18年の月日が経つ今でも、たまに、ある。



















そんな父親は、3人姉妹の中で、唯一私を可愛がっていた。

・・・何故って、私が姉と違って「静かで病弱な子供」だったからだ。










何か新しい本か玩具を買い与えておけばひとりで静かに遊んでいたし、

外を連れて歩いても、親の言うコトを聞いて大人しく電車の席に澄まして座って、

歩けば決して離れるコト無く母親の後をチョコマカとついて歩いた。





たまに母親が振り向いて、私が居なくなったコトに気がついても

母親が今来たルートを戻ると必ず私がそこに居て、

出発前に母親が私のリュックに詰めてくれた果物やらジュースやらを広げて

ひとりピクニックをしている最中で、母親の微笑を誘ったとか。





泣く行為ひとつ取っても、小さい子供がまるで大人がするソレのように

ポロポロと涙を流すだけの様子は、大声で泣き叫ぶ姉のそれよりも

数段大人の同情を誘った。





大声を上げて泣くことも、グズるコトも、余程体調に異常があるときか

姉に本や玩具で叩かれたり、肩を外される、階段から突き落とされる、

持ち物を壊されるなどして何らかの折檻を受けて大人を呼ぶ以外に

滅多に無かった。





だから私が大きな声で泣けば、必ず誰かしら大人が飛んで来た。





グズれば大人は私を優しく宥めようとしたり、

何処か体が悪いのでは無いかと心配して大騒ぎしたりした。




















今でも母親が私の子供の頃を思い出すと、

第一声に全く手のかからない子供だったと口に出す。





ホントに手のかからなくて可愛い子供でねぇ・・・。

お母さんが風邪引いて起きれなかった時なんか、

昨夜のおかずをご飯にかけて、小さな身体で頑張って階段昇って

お母さんの寝床まで持ってきてくれたのよ。

あんなに大人しくて優しい子だったのが、今じゃ・・・ほら。

年がら年中反抗期みたいになっちゃって。



















しかし私に言わせれば、姉のように騒いだり暴れたりしなかったのは

私が騒いだり暴れたりと身体を使って遊ぶのが好きではなかったし、

静かに遊んでいれば、大人はそれを微笑ましい光景として見守るだけで

誰も邪魔しようとしないから、そっちの方が居心地良かっただけの話。





要求を通したい時に泣き喚いたりしなかったのは

欲しいモノの前で地団駄踏んで大声で騒げば姉のように痛い思いをして

終わりになってしまうのを知っていたからだ。





一旦「アレが欲しい」と口に出せば、大人はそれを覚えている。

そこで「今日は止めておきましょうね」と言われて、首を縦に振れば

後日きちんと望んだものが自分の手元にやってくるのを良く知っていた。





体の弱い自分が普段からグズっていれば、本当に苦しい時には気付いてもらえず

その間、死ぬような思いをしなくてはいけない。





普段から大きな声で泣いていれば、いざ、姉に虐められて、

大人を呼ぶ為に泣いていても、誰もが姉にするようにその泣き声を疎んじるだけで

私の危機に駆けつけてはくれなかっただろう。





大人の言う事を聞いて、大人に不快感を与えるコトさえしなければ

要求は何でも通る。

欲しい時、いつでも手が差し延べされる。



















実際のトコロ、私はもともとひとり遊びが好きで、

自発的に他者に干渉して行くコトは少なかった。





だから私の周囲への関心の無さを憂えた大人があれもこれもと

私が欲しがりそうなモノを次々と差し出して

私の良い反応を引き出そうと様子を伺い、

私が好きなモノを選び取ると安心して去って行く。





もしくは運悪く、構って欲しくない時にまであまりに過干渉にされた

私に疎んじられて癇癪を起こされ、すごすごと慌てて引き下がる。





・・・と、いうような、圧倒的に向こう側からの接触を求めてきて

受動的に私がそれを処理する、というコトの多い生活に慣らされていたので、

私が自発的に何かを欲する機会というのは少なかったが、

私が何かを要求するにも姉のように暴れたりする方法は絶対に取らなかった。










私はもともと食が細く、発育も同い年の余所の子よりもいくらか悪かったし

ヘタに殴れば死んでしまうのではないかと本気で思わせてしまうほど

たおやか(と言えば聞こえは良いが、ひ弱だったのだ。)な子供だった。





それは子供を暴力で制してきた父親にすら殴るコトを躊躇させてしまう程で、

私はそれを知っていたから、自分独自の反抗法を編み出していた。










当時の私は元々発育が悪いトコロに極端なくらいの偏食で、

一旦口にしないと決めたモノは絶対に口にしなかった。





それは強情な父親が匙を投げる程の強硬さで、

赤ん坊の頃から、父親が私に嫌いな離乳食を食べさせようとしても

頑として口を開けずに「なんて強情なヤツだ!」と怒らせていたというから

相当な頑固者だったのだろう。





だから必然的に食卓には、私の発育を考慮して、

私が好んで口に入れるモノばかりが並んでいた。





父親でさえも私をあちこちと自分の贔屓の飲食店へと連れ回し、

私の食べるモノのレパートリーを探ろうと奔走していたくらいだったから

周囲の大人たちが、どうにかして私に何か食べさせようとしていた

その苦労の度合いが理解できよう。

(今になって、すごい悪いコトしたなと思うのだが。)





それほどまでに大人が自分の身を心配しているのを理解していて、

私はどうしても通したい要求があると、大人の心配と逆手に取り、

すぐに食欲を無くして見せた。

いわゆるハンガーストライキなのだ。





何処か悪くしたのではないかと心配して大人たちが私のご機嫌取りをしにかかると

例の大人の同情を誘うシクシク泣きをはじめて自分の欲求を遠慮がちに口に出し、

なんだ、ご飯を食べてくれるならそれ位、と、

大人が苦笑いして承諾して必ず言う事を聞いてあげると約束されると、

打って変わってニコッと微笑み食事を取って大人を安心させ、

私のその様子を見て大人が胸を撫で下ろして、やっぱり子供なのだと

微笑ましく私を眺めて和んでいるのを感じ取ると、

内心、してやったりと舌を出す。





私は、そんな強かな子供だった。




















当時の私の外身は、母親や親戚の思い出話の中で

無垢の天使のように存在していて彼等を幸せな気持ちにするかも知れないが、

本人に語らせると実際はそんな純真な子供ではなかった。





殴られる姉の無様さを見て「してはいけない事」を学習し、

自分がああならない為の道を常に模索していたし、

自分がした事に対する大人の反応などをつぶさに観察して

大人がどういう時に自分に微笑を投げかけるのか、褒めるのかを覚えていて、

それらとあわせて導き出した「許容される事」と「されない事」の狭間を縫って

自分の要求をすんなり通す方法を覚えていった。





大人の「満足」を満たす代わりに見えない交換条件として

極力自分の事を甘やかさせる方向に大人の神経を集中させ、

完全に大人を「自分」に飼い慣らして、手玉に取る子供だった。





その対象は、姉達が「暴君」として恐れて止まなかった父親も例外ではなく、

私が「父親としての満足感」を与えるという条件を満たす代わりに

姉妹の中で私が唯一、

父親に私の好きなモノを食べさせる為に外を連れて歩かせ、

父親の膝の上に座ってビールの泡を横取りしておつまみをせがみ、

入浴時に父親に身体を洗わせて身体を拭かせ、

姉に折檻されれば飛んで来させて、姉を退けさせる

・・・という特権を得る、ある種の利害関係が成立していた。





姉と比べると私の方が数段計算高く、強かで、厄介な子供だった。

私が母親になっても自分のコピーのような子供だったら不気味でイヤだなと

思うくらい、当時の私は子供らしい純粋さが無く、可愛くなかったと思う。




















しかし、「交換条件」さえ満たせば私はいくらでも大人の心を満たす

愛らしい子供として振舞っていた。





・・・そう、「交換条件を満たせば。」










私はある日を境に、その「交換条件」が満たされない環境へと移り、

それでもしばらくはある種の強迫観念のようなモノで

「大人の願う子供」の姿を維持し続けたが、

私の願いなど、いくら大人の出す要求を飲んでも満たされないのを、

自分の努力の甲斐の無さを悟って、突然「良くない子供」へと変身していった。





私にとって自分の希望を満たさない大人など

無用のモノだったのだ。





















環境が変わるきっかけを与えたのは父親だった。





・・・いいや、今思うと、誰しもが

そのきっかけを作った張本人なのかも知れない。

姉も、私も、祖父母も、

彼の暴力から子供を守ってきた母親さえも。
















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なんか「残骸」と関係無い話に見えますね(笑
一応関連付けて書いてます(一応ね。)

今日は寝坊して主治医のトコと
会社にお給料取りに行くの忘れました(それヤヴァいやろ。)
明日行けたら・・・いいなぁ(淡い希望。)


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