震災から1箇月、津波被害を受けた沿岸部では、あまり復興が進んでいない様子である。 前にも書いたが、被災者自身が足を引っ張っている面もあるのだ。 被害者を悪く言うなんて!と非難する人もいるだろうが、事実なのだから仕方が無い。 本当に頑張っている被災者もいるが、おんぶに抱っこで「自分は被災者なのだから」といつまでもお客様気分の人もいる。 TVのインタビューを見ていると、判る。 「東京の○○、迎えに来て下さい。寂しいよう」 と泣き崩れる老女とか、 「同じ場所で前のように家族皆で暮らしたい」 と訴える老夫婦とか、未だに避難所にいついてメソメソしている老人を見ると、現実を見ようよと思ってしまう。 そりゃあれだけの災害で、家も仕事も家族も全て失って、心身ともに想像を超えるダメージを負ったのは解る。 でも、泣いていれば町が元に戻る訳でもあるまい。 天は自ら助ける者を助く。 家族も家も流されて自身も被災者なのに、行政や医療関係者は現場を離れられなかった。 実際そういう人達を知っているだけに、飯はこれだけかと文句を言いながら食べて寝て垂れるだけの人間は、甘えんなとしか思えない。
瓦礫の撤去も進まない。 余裕がある豊かな生活の中では、個人の気持ちは尊重されて当たり前だったが、今は非常時なのだ。 いちいち個人の感情に配慮していては、先に進めない。 本当に町の復興を望むなら、割り切って合理的に物事を進めなければならないだろう。 同じ場所に町を作っても、どうせまた津波が来たら元の木阿弥なのだから、部外者の私に言わせれば復興自体が疑問だけれど。 いつまでも避難所で世話になっていても邪魔なんだから、さっさと余所の土地に移れば良いのにと思うのだが、先祖代々の土地を離れたくないだの、ずっと暮らした場所にいたいだの、私には不思議でたまらない。 津波で変貌した町でも、住み続けたいものなのか。 土地への執着など、幻想に過ぎない。 結局は、現実の生活が勝るのだ。 そうでなければ、北朝鮮人だって、脱北なんてしないだろう。 先祖代々の土地などと言うが、その先祖だって、自分の故郷を捨てて新しい土地に住み着いたのだ。 憲法22条に「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」とあるのに、土着の人間は出て行く者に対して、 「故郷を見捨てるのか」 「俺達を裏切るのか」 と言うのが好きだが、それは新天地を求める者へのやっかみの裏返しでもある。 勿論、そこに住み続けるのも彼等の自由だ。 しかし、危険な場所に住み続けるのは、公共の福祉的には如何なものか。 今まで何十年も大丈夫だったとは言え、それが数時間で壊滅したのだ。 次はまた何十年先かも知れない、明日かも知れない。 それは誰も知らない。 完全に安全ではない土地に住まわせるのは、行政としてそれを許可しては駄目だろう。 埼玉県久喜市も、まさに今それで揉めているではないか。 危険を承知で、何かあっても他に責を負わせない、その時は再建も自力でする、と希望者が確約しない限り、津波の町に人を住まわせてはならないと思う。
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