いま、「ニッポンのジレンマ」を見ながらこれを書いている。
自分が変わっているのではないかと感じている。まず、多角的な議論に興味がうせてしまっている。幅広くアンテナを張って敏感に「他者」を感じ、見識を広げる事。 それは賢者を目指すには必要だという使命感と共に、常に興味を失う事はなかったはずだった。
それが失われている。 失われようとしている、ではなく。 少なくとも今現在は失われている。
もちろん、それはこの番組に出演する同世代の成功者を同時にたくさん見る事で発生する嫉妬を認めたくない事から発生する抵抗感もあるだろうけれど。
結局は外を見ても根源には到達しないと感じているのかもしれない。つまり、彼らのような成功者、うがった見方をすれば「意識高い系」の人たちは「陽」なのだ。オタクのようなジャンルの人でさえ、表に出てくるのは「陽」であり、僕は「隠」の人間には届かないし、有効ではない。
そして、「陽」を語るだけでは世界は語れない。つまり、システムにたどり着けない。彼らの議論ではシステムへの乗り方がわかるだけで、それに乗れない人間を救済する事は出来ない。
あと、一人の人間が認知できる世界が狭い事に本当に気付ている人間が少なすぎて、情報技術の発達によって世界を果てまで知ったという誤感覚が特に知識人の間に蔓延しているのではないかと思う。
世界の全ての情報が検索可能であるという誤解によって、「開いた引き籠り」が広がっているようにしか見えない。
まあ、要するに広く世界に、悪い言い方をすればグローバルに視野を持っても本当の事は何もわからない。というか、根源に至るならグローバルである必要はないのではないかと思っているのかもしれない。
僕は行く先々で「陽」になるように強要されてきたし、その期待に応えようとしてきた。とくに彼女と別れてからは。
しかし、ようやくここに来て、それこそが僕の間違いなのではないかと気付けたのだろうか。「陽」であるかのように振る舞うために、自分を開く事に疲れた。それは「ふり」だから。
だから、「ふり」をやめて自分に閉じこもり、自分を煮詰める作業が必要なのかもしれない。
それがニッポンのジレンマの冒頭に感じた拒否感なのかもしれない。 くしくも今回の番組のテーマ「ニッポンの大転換」というテーマの討論を見ながら、そういう自分の転換を感じている。
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