「自殺サークル」なるビデオを見た。 どうせ、ちょっとした流行もののサブカルを気取ったくだらない映画だろうと思っていたのだが。
果たして、映像の作りは普通の邦画だったと思う。 若手の監督が作った邦画。
構成もクライマックスでストーリーを投げ出す、エヴァ的なやり口。 まぁ、無難に面白くて他人にも薦められる出来だった。
が、僕にとってはたいへん示唆的だった。 「あなたはあなたの関係者ですか?」 「あなたとあなたの恋人は関われる。」 「あなたとあなたの両親は関われる。」 「あなたとあなたの他人は関われる。」 「それでは、あなたはあなたの関係者ですか?」
「自分」とは何なのだろうか? 我思う。故に我あり。 我はどのようにあるのか?
自分は自分と関係を持つことが出来るのか? あるいは、それは分裂病者には可能かもしれない。 ならば、正常な自己を保っている人間にはどうなのか?
「自分」という主体の内部で完結する行為は、単なる行為でしかない。 つまり、もしも「関係」をある主体から別の主体への働きかけであるとするなら、自分という自己は自分と言う自己と関わることは出来ない。 自分と自分は同じ主体であるからだ。 「自分」という同一性を欠いたとき、自分は自分の関係者と成りえる。
「自殺サークル」では、自分は自分と関係ない。 だから、自分が死んでも関係ない。と言った。 あなたが死んでも恋人の中のあなたは死なない。 あなたが死んでも両親の中のあなたは死なない。 あなたが死んでも他人の中のあなたは死なない。 あなたはあなたに関係がない。 それなら、死んでも同じ事。
自分は生きていても死んでも同じ。 もし、「自分」の形が他人との関係で形作られているとしたら。 「死」とは変化の停止でしかない。 「自分」という身体を伴った存在は消滅し、他人と関係を持つ可能性は消える。しかし、他人の中には関係を持つ可能性が消えうせた「他人の中の自分」が残る。 つまり、本当の死とはこの世に存在する誰の中からも「他人の中の自分」が消え去ったときに訪れるのではないだろうか。
これについては浦沢直樹の「モンスター」が示唆的であると思う。
自己と世界との関わりの極限に位置するからこそ、考える価値のある現象「死」。
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