| 2003年06月20日(金) |
メディアを哲学する。 |
大澤真幸の「電子メディア論」を真面目に読み始めました。
マクルーハンは、メディアは身体を拡張すると主張したようです。現在のメディア論もたいていはマクルーハンの立場を肯定していてるようで、大澤真幸も基本的に肯定的な立場にあるようです。
ただ、「電子メディア論」を読み進めていると、どうも「メディアは身体を分離する」と換言した方がよいのではと思う論を展開している。メディアに接続することによって自己の内部に他者を抱え得る、つまり現実の自己とは別に、メディアを通じたコミュニケーションの内部にいる自己それ自体が独自に”自己”として存在し得る。それはつまり、メディアによって媒介される身体が現実の自己から分裂している、と考えることは出来ないだろうか。
電話が例に挙げられていたが、電話を通じると時に電話の中の私(それは声だけの存在である私)が現実の時空とは離れた存在として認識される事があるという。つまり、電話に夢中になり踏切の中に入ってしまった女性のような状態だ。その時、電話の中の私と現実の私は分離している、と言えるかもしれない。
ならば、電話の延長線上で携帯電話を捉えるとするなら、携帯は分離を加速するのではないだろうかと考える。つまり、いつでもどこでも使用可能な携帯電話は、いつでもどこでも現実の自己から分離した携帯というメディア上の自己を出現させることを可能とする。また、メディア上の分離した自己によるコミュニケーションが一般化するなら、自己を形成するコンテクストの一部しか共有していない関係(たとえばサークルだけの友人、趣味の友人など)までも一般化される。
自己という総体を形成するコンテクストの一部は、あくまでも自己の一部であるはずだが、メディアはその自己の一部を総体である一つの自己として出現させる。よって、メディアを媒介とするならば、その限られたコンテクストしか共有していない事実、コミュニケートする相手のごく一部しか知ることが出来ない事実は重要ではなくなる。メディアを媒介としてコミュニケートする相手はあくまで、メディア上に立ち現れた自己であり、メディアの向こう側にいるであろう現実の自己ではなくなるからだ。
そうなると、コミュニケーションにおいて共有するコンテクストが変わることによって、メディア上に立ち現れる自己は大きく変容する可能性がある。現実問題として、日常生活において対面する相手によって頻繁に自己を変容させることは困難である。あるいは、あまりに自己の変容を繰り返しているとコンテクストの混線が起こりかねない。(家庭に職場のコンテクストが混入するなど)
ここに携帯電話などのメディアを媒介させると、そこに限定されたコンテクストで構成されるコミュニケーションの場が即時に形成される。電話であれば、電話を切ればその場は即時に解体される。この形成と解体の容易性も特徴的であるが、ここでは限定的コンテクスト共有型のコミュニケーション場が形成され得る事が重要だ。つまり、携帯電話によって限定的なコンテクストで形成される自己=メディアによって分離した自己の一部によるコミュニケーションが、いつでもどこでも可能となる。この意味で、私は携帯電話はメディアによる身体の分離を加速すると考える。
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