痛いの嫌い - 2007年08月15日(水) ま、記念日に頓着しないのは誕生日だけに限ったことではなく、ご多聞にもれず今日も忘れていました。 戦争というのは、背景はどうであれ「殺したり、殺されたり」「傷ついたり、傷つけられたり」という行為だと思う。一人の人も、死なずに傷つきもしなければそれはその紛争は戦争と呼ばないような気がする。 んで、やっぱり「痛いのはやだ」、覚悟しててもやだ。戦争になると「痛いこと」に巻き込まれ、いつ「痛い目」にあうか分からない状況が日常となってしまう。 これは非常に不幸せな状態だ。「明日は戦争に勝っているかもしれない」と考えていても、今日痛いかもしれない。今日死ぬかもしれないのに、明日のことを言われても何の救いにもならない。 そぉ、土地なんてくれてやればいいじゃん、もともと誰のものなのかわからないんだし。人を不幸せにする宗教なんてなくてもいいじゃん。面子なんてなくてもいいじゃん。どんどん頭下げて、どんどんくれてやればいい。 頭を下げ続けて、ひとに与え続けても、「私」は生きている限りこの世に存在し続けている。存在し続けることが人間の誇りだと思う。自分の意思で生き続けることが唯一の誇りだと考えている。 なので、戦争を始めとする存在否定の行為を私は大いに嫌う。国のためでも、誰のためでも、痛いのやだし、他のひとが痛がるのもやだからね。 ...
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