rolling stone - 2007年03月13日(火) 自分の意思の有無にかかわらずころころ転がっていると、転がっている間にそれが自分の意思であるかのように錯覚してしまう。これは、学校教育とか戦時中の国の扇動方法にも似ていてる。 だから、転がしている側の意思が明確に感じられる場合は、明晰な判断で疑ってかからなくてはならない。転がしている側の傀儡に成り下がってしまうから。いったん誰かの意思で転がりだすと、再び自らの動きを止めることは、動き出すときより数十倍の努力と忍耐と苦痛を必要とするだろうから。 しかし、意思のない本当の風のような力であるならば、身をゆだねて動いてみるのもよいのではないだろうか。 本当に考えなければいけないのは、どちらに転がるかとかどんな転がり方をするかではなくて、転がり続け、止まらないことのような気がする。 動きを止めようとしているものを動かすのは、それ相応の力や衝動が必要に違いない。 今の私にはいったん止まった自分を再び動かす自信がない。だから、半ば強迫観念のように転がり続けようとする。 もし、止まってしまったら...? でも、そんなものでは人生も世の中も何も変わりはしない、そうなったら少しづつでも風を感じて転がろうとするだけ。ときには、弾みがつく日もあるんじゃないかと思うことにしよう。 ...
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