わたしゃ心理学者ではないので、かえって無責任なことが言えるかもしれない。
でも、経験的にこの3つのことはいつも考えている。
1.ひとつのことを集中して考えず、適当な時間で考える対象を切り替えないとだめ。
2.行動が伴わないことが既に判明していることは考えない。
3.馬鹿にされてもよいから人に話す。
まず1について
プログラマやっていて仕事のことをよく考えるのですが、疲れるのですよ、頭が。
で、疲れた頭で何を考えてもだめなのですよ。特に徹夜なんて最悪。(徹夜して自慢するプログラマは信用しません)
そこまでいかなくても、何時間も集中して考えてると、頭の中が疲れるのですよ。
で、プログラムを考えている場合は直らないバグを生むし、
生き方を考えてると、自分の生き方に疑問を持ったり、悩んだりすると思うのです。
これって、考えすぎて頭や心が動けない状態なんじゃないかと、頭の疲労蓄積状態なんじゃないかと。
ただ、筋肉とか内臓は痛いという直接的なアピールを行いますが、頭/神経系はそういきません。疲れていることを隠そうとしつつ、仕事を続行させようとします。馬鹿なプログラマのように。
で、当然、答えが出ません。ますますプレッシャーを感じてますます一生懸命考えます。
でも、筋肉は脱力する/内蔵は暴飲暴食を避け節制するということができますが、頭は休ませようがありません。文字通り自分で意思を持っていますから。
挙句には、眠ることが休息になるにもかかわらず、不眠症という手段をとってなおも考えようとします。これは、ワーカホリックの企業戦士(爆)が過労状態でなおも仕事をしようとする姿に似てるかもしれません。
座禅は、ただひたすら座ることによって何も考えないことを考えることで頭を休めようとする。滝に打たれたり、寒中水泳などは苦痛を与えることによって頭が動かない状態にしてしまおうとし、バンジージャンプは恐怖によって頭を停止させる瞬間をつくって休めさせようとする行為といえるかもしれない。
繰り返しこれらの行為を行う人は、強制的に思考停止の局面に陥れることがその人にとって快感であると学習しているのではないだろうか。
当然、思考停止した後は日常に復旧するまでにいくばくか時間が必要となる。思考停止->復帰(半覚醒)の時間を無理やり日常的に作ることが、悩まないコツのような気がする。
言葉をかえれば、時折、頭の中でいつも考えている部分を脱力させること、いつも使っていない部分をフル稼働させること、が精神的なバランスをとる上で非常に大変なのではないかと思う。逆に、同じことに悩んで懊悩している姿は、歯を食いしばって脳の一部分だけを酷使している姿に見える。まるで、ベンチプレスだけを半日やり続けているアスリートのような... 彼は、最後には自分の胸の上のバーベルを持ち上げられず窒息してしまうのかもしれない。
で、人間て高々2000年くらいの間に今のような生活を送るようになってきたので、それまでの間は狩猟生活とかをしてたはず(多分に憶測)。まして、発達した脳髄をもって不特定多数の人間と接近して、食うものに困らず生きていけるようになったのは、ここ数百年くらいのはず。
こんな環境に生きることは、ほかの生物ではありえないのではないかと思うのです。
ちゅうことは、遺伝子のどこを探してもこんな状況に対応する方法は見つからないので、頭が悩むのではないかと思うのです。で、頭はこれに対応するためにあれこれめまぐるしく考えるわけです。考えなくてもよいことを。
でも、考えなくすることは大切なのですが、これはやたら難しい。街中でバンジ−ジャンプをするわけにもいきません。なので、別のことを考えるようにする。
自転車に乗るのはこの辺に効果があるような気がします。
車道を自転車に乗っていると、もぉ、ありとあらゆる身の危険が発生します。
やー様の車にバッグが当たって前に回り込まれて急停車されたり。車輪が割れたり、スポークが折れたり、手を置いているハンドルが緩んで急になくなったり、よける余地がないのに前から逆送自転車が坂を下りてきたり、下り坂で手がかじかんでブレーキを握れなかったり、交差点を渡っていたら実は停電で信号が動作せず横から車が来たり...
これは、何かくるぞと身構えていないと、対処できないことばっかりです。(やー様のときはひたすら謝りました)この緊張は、ちょっとしたバンジージャンプ並みなのではないでしょうか。というか、これくらいの緊張感を持っていないと自転車は走っちゃいけないと思うのです。
閑話休題、そうするともう目的地に向かって自転車を操るので手一杯でほかのことが考えられなくなるのが実情です。結局、これが自転車通勤の効能のような気がします。実際、どんなに忙しい時期でも自転車に乗ったら仕事のことなんか考えていられません。なので、自転車から降りたとたん今まで緊張していた頭の部分が開放されて、今まで休んでいた部分が動き出して快さが発生する。と、勝手に自分で思い込んでいます。
もうひとつ、忘れていけないことがあるのです。実は。
疲れることです。それも精神的にではなくて、肉体的に疲れることです。
前の遺伝子の話ですが、体を動かさずに飯が食えるようになったのもここ数百年の話で、それまでは狩猟に行ったり、農耕したりしなければ、おまんまはいただけず、生きることもできなかったはずです。
つまり、肉体を酷使するすることは結局、生来持っているリズムを作り出す上で不可欠なのではないかと考えます。肉体を酷使せずに、アルコールや薬に頼る手はありますが、やっぱり不自然な感は否めません。
また、精神的に疲れると、これは頭が暴走し始めるという反応も起こりえます。根をつめてプログラムを考えて、そのまま寝ようとすると、頭がプログラムのことでいっぱいになり眠れないという経験を昔よくしました。
結局、ずっと昔に人間が行ってきた生活を、擬似的に再現していかないとやっぱりどこかで、人間のバランスが崩れてしまうのではないかと思います。
考えてみれば、日常的に通勤電車で30分立ちっぱなしというのも不自然だと思うのです。電車以外でそんな状況はありえないはずです。これまた、人間の過去の経験のどこを切っても現れない行為だと思います。胎児だってもう少し自由に動いているはずです。
昔、電車通勤をしていたときは、仕事場にたどり着いたら精神的に非常に疲れたまま仕事を始めなければならないことが苦痛でした。
高々、200年ほど前の生活から比べると、現代の人は、想像を絶する怠惰な生活を送っているのかもしれません。これは、片方で文明という名前で呼ばれているものですが、もう片方では本来の生き方を歪める行為と等価ではないかと思ったりします。
自転車に乗り出して気がついたのですが、山手線は横切っても1時間あればおつりが来る距離です。山の手線内の移動であれば、自転車と電車は同じくらいの移動時間で済みます。
こういうことを知っている人は、たぶん少数派なのだろうな。
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