Sun Set Days
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2005年03月26日(土) note.10

 電車の中は、いつも森を連想させる。スーツや制服姿のたくさんの人たちが、自分の周囲に色とりどりの木々のようにそびえている。その合間から車内吊りの広告が見える。それは雑誌の最新号の見出しであったり、新しい携帯電話や、新発売の飲み物だったりする。地下鉄がゆっくりとカーブを描く、あるいはビルの合間を進んでいく。地下鉄は途中から地上に出て、いつの間にか東急田園都市線に変わる。最初の頃、ゆずは地下鉄と私鉄の相互乗り入れをどうしてもうまく理解することができなかった。同じ電車なのに、渋谷までは東急線で、渋谷からは地下鉄になるということがうまく理解できなかったのだ。もちろん、逆方向にずっと進むと、途中から東武線になることも。
 それでも、電車通学を六年も続けていると、いまでは自分なりにそういったことも理解できるようになっている。何番目の車両が比較的空いているかとか、椅子に座るチャンスがより多く訪れるのは何駅からかとか、通学に関するささやかな知恵を身に付けている。学校帰りには、なけなしのおこずかいを握ってたくさんの店を覗いてみることもあった。何も買えなくても、見ているだけで楽しいいくつもの店。ショーウィンドウを飾る、季節ごとのたくさんの色。
 電車がホームに止まり、人の波に紛れて長いエスカレーターを下りていくと、改札口の先に花がいるのが見えた。やっぱり、とゆずは思う。花ちゃんはどこにいてもとても目立つ。
「ゆずちゃあん」
 片手をすばやく動かして手を振って、花はゆずを迎え入れる。ゆずは少し恥ずかしいのだが、花はゆずをぎゅうぎゅうとハグする。
「ハグって素敵よね。距離をなくすのよね。いろいろな意味で」
「いろいろな意味って?」
 花の腕の中から見上げるようにしてゆずは訊ねる。
「肉体的にも、精神的にもって意味よ、ゆずちゃん」
 花はそう言って笑顔を見せる。よく見ると男の人だということがわかるのだが、よく見なければきれいな女の人と勘違いされてもおかしくはない姿は、そのギャップが存在感を高めるのかどこにいてもどうしてか人の目を引く。
「待った?」
「ううん。さっき来たところよ。それに、女の子はちょっと遅れてくるくらいがちょうどいいのよ」
「どうして?」
「あと十年も経てばわかるわ。ディケイド、ね」
 ゆずはディケイドという言葉を花と知り合ってからはじめて知った。ディケイド、というのは十年間ということを意味する英単語で、ある一定の時間の幅を示す言葉があることを、ゆずはなんとなく不思議に思うのだった。そこにはどんな意味が込められているのだろうと思う。花はときどき何かの呪文のようにディケイド、と言った。十年後には、わかるわと。
 花と知り合うようになって、ゆずはその十年後がとても楽しみになるようになっている。花の言葉を借りるのならば、十年後には、ゆずは大好きな人ができて(「パパよりも?」「もちろんよ。パパはもちろん大事だけど、それとこれは別なの」)、目標があって(「どんな?」「わからないけど、素敵なやりがいのある目標ね、きっと」)、毎日が幸せに溢れているのだそうだ。もちろん、それをそのまま鵜呑みにしているわけではなかったが、それでも花の言うディケイドの話は、ゆずにとってはとても素敵なものだったのだ。
 花はゆずを二子玉川高島屋に連れて行き、新館の中にある南仏風のティーサロンに連れて行った。そこで、窓の外の素晴らしい景色を見ながら、おいしいケーキと紅茶を頼むのだった。
「学校の話をして、ゆずちゃん」
 テーブルにひじをついて、興味深そうに、花はゆずを見つめる。ゆずはいつも花とそうやって喫茶店などに入ると、嬉しくなってしまう。花はゆずのつたない話をちゃんと全身で聞こうとしてくれるし、真剣に聞いてくれる。それはとても心地よいことだった。
「ふぅん。ゆずちゃんは絵を描くのがとても好きなのね」
「うん」
「今度、アタシの似顔絵でも描いてもらっちゃおうかな」
「描くよ。ね、今度私の家に遊びにおいでよ」
「そうね。そのうちね」花の表情が一瞬変わる。「ね、ゆずちゃん、そのチーズケーキ一口もらってもいい?」
「うん。いいよ。花ちゃんのタルトも一口ちょうだい」
「もちろんいいわよ。お互い別のものを頼むと両方楽しめて得ね」
「うん」
 ホームでの一件以来、ゆずは花とときどき会うようになっていた。最寄り駅が同じであることがわかり、カフェでお茶をしたり、散歩をしたり、ウィンドウショッピングをするようになったのだ。花は明るくて、楽しくて、話題が豊富だったから、ゆずはすぐに花のことが好きになってしまった。
 一緒に遊んで――とゆずは思う。一緒に遊んで、花ちゃんを好きにならない人はいないかもしれないと。花はいつも本当に楽しそうに笑っていたし、大げさなくらいのみぶりと、表情で、生命力を輝かせていたのだ。
「ゆずちゃん、ちょっと屋上に出ようか」
「うん」
 ケーキを食べ終わった後、ゆずと花ちゃんは玉川高島屋の新館と本館を結ぶ連絡通路を歩く。屋外庭園になっているそのわずかなスペースは、随分と風が強かった。白に近いねずみ色の雲が屋上を取り囲むように覆いかぶさっており、花の長い亜麻色の髪がばさばさと風に揺れ、花は右手で暴れる髪を押さえつける。
「すごい風ね」
「うん」
 ゆずは広場の池の水面が、風に吹かれて波のようになっているのを興味深く見つめる。
「なんだか海みたい」
「ゆずちゃんは海にはよく行くの?」
「あんまり行ったことないよ」
「そう。海は好き?」
「うん。海に行くとずっと泳いでいるから日焼けしちゃうよ」
「日焼け!」花は大げさに叫ぶ。「まだUVケアの重要性を実感する年齢じゃないのね」
「UVケア?」
「ううん。なんでもないわ。いつか一緒に海に行きましょう」
「うん」
 ゆずは花を見て微笑む。花のことを良朗に言うと、少し戸惑っていた。でも、いい人なんだろ? とだけ話していた。ゆずが気に入った人なら、きっといい人なんだろうなと。
 その通りだ。花ちゃんは素敵な人だとゆずは思う。「え、なに? どうしたの?」花が不思議そうにゆずに尋ねる。
「ううん、なんでもない」
 ゆずは笑顔でそう答える。


―――――――――

 花の部屋は、まるで植物園のようだった。
 関谷は扉を開けた途端に押し迫ってきた濃密な植物の匂いに、思わず顔をしかめた。緑が嫌いなわけではなかったが、普段の生活ではあまり感じることのない匂いばかりだったからだ。
「すごいな」
「いいでしょう」
 花は嬉しそうに笑顔で言う。
「『花の植物園』って友達は言ってるわ」
「確かに、植物園みたいだ」
「そのへんに座っててね」
 花が指し示したガラスのダイニングセットの椅子に座る。シルバーの脚にガラストップのテーブルは、無機質な感じが取り囲んだ緑の中で印象的に映える。
「飲み物は何がいい? コーヒーも紅茶も、あやしいお茶も、ジュースも、もちろんアルコールもあるけど?」
 あやしいお茶というのは聞かなかったことにして「コーヒー」と答える。そして関谷はすぐに椅子から立ち上がって、部屋の中に置かれているたくさんの鉢を見る。
 色とりどりの花と緑が溢れていた。
 圧巻なのは、リビングの外が温室になっていることだった。窓を開けると、小さなベランダがビニールの張られた温室になっていたのだ。そこには土があり、木々が育っていた。原色のおそらくは南洋の花が咲いていた。
「すごいね、これ。全部、花が集めたの?」
「そうよう。お金と時間がかかってる。もちろん溢れんばかりの愛情もね」
「育ちすぎなくらいだ」
「過剰な愛情だからかしら?」
 花はそう言うとおかしそうに声をあげて笑う。
「この木見たことがある」
 関谷はそう言ってベランダの木を見上げる。大学一年生のときに友人たちと沖縄に遊びにいったときに、同じような木を見たことがある。
「がじゅまるね」
「がじゅまる?」
「いい木でしょ。命の力に溢れていて、パワーを分けてもらえるような気がするのよ」
「生命力ありそう。なんか、花の元気の源がわかった気がする」
「ふふ。そう?」
 キッチンでコーヒーを沸かしながら、花は嬉しそうに言う。
「でも、よくこんなマンションを見つけることができたな」
「不思議な縁なの」花は言う。「このマンションはね。店の常連さんだった建築家のおじいさんが建てたのよ。いわゆるデザイナーズマンションってやつ。花と緑を愛する人で、私の名前が花だってわかったら、親近感を持ってもらったみたいで、随分とよくしてもらったわ。そして、家族のいなかったおじいさんが死ぬ前に、アタシにこの部屋を残してくれた。もちろん受け取ることはできないって断ったわ。でも頼まれちゃったのよ。この部屋の緑を受け継いでくれって。花ならできるって」
「なんかすごい話だな」
「そうよね。そしてそのおじいさんは土地の譲渡の書類やら税金やらそういう手続きを全部すませて、私にこの部屋を残してくれたの。まるで都市伝説のような不思議な話」
 関谷は温室のほうから花を見る。男のわりに華奢な花は、肩幅も随分と細い。色も白く、部屋の中の濃密な緑の中で、なおさら印象的に目に映る。
花が男だということはわかっていたし、恋愛感情はまったく抱くことはできなかったが、それでも一緒にいると心地よいのは事実だった。人として、惹きつけられるものがあるのだと思っていた。花と喋っていると、世界が魅力的な人や魅力的なもので作られているように感じることができるのだ。そして、普段からどちらかと言うと斜めに世の中を見てしまう関谷にとっては、それはとても新鮮な感覚だったのだ。
「はい。どうぞ」
 コーヒーがテーブルの上に置かれ、関谷は再び椅子に座る。
「水の世話とか、結構大変だろう」
「そうね。実際重労働なのよ。でも、たとえば子供がいたらその世話をするでしょう? それはもちろん大変だけど、ちゃんとやるじゃない」
「ああ」
「それと同じことよ。子供にしては、数が多いかもしれないけど」
「五つ子を超えてる」
 関谷が言うと、花は笑った。「テレビに出れるわね。奮闘記みたいな感じで」
「視聴率よさそうだ」
「いいわよ。きっと。応援のハガキやメールもどんどん来るわ」
 花は目を細めて笑顔を見せる。関谷は自分がいつの間にか部屋の中の濃密な緑の匂いになれはじめていることに気がつく。


―――――――――

 慧の夢を見た。
 ときどき、無防備な隙をついてその夢を見てしまう。二人の時間がやけにスイートだったときの記憶が、突然まるでよくできた映画を観ているかのように、夢の中で再現される。そうなるとだめだった。夢が醒めてしまったことに心の底から悲しくなるし、しばらく夢と現実との境目から抜け出すことができない。
 花は白い花柄の柱のついたベッドで身を起こし、しばらくの間考える。そして、そんな夢を見てしまったときに自分に繰り返し言い聞かせる言葉を心の中でだけ呟く。
 あんな時間を持てただけ幸せなのよ。あの時間があればこれからもずっと生きていける。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
 もちろん、本当に大丈夫ならそんなふうに自分に言い聞かせたりなんかしないということはわかっている。本当に満たされているのなら、何かを言い聞かせる必要なんてないのだ。
 それでも花はそう繰り返す。
 それから、冷え切った寝室を出て、植物園の緑の植物を見つめる。緑の植物たちはまだ早い朝の訪れに身を縮ませているように見える。
 花は煙草をくわえる。そして、無理矢理笑おうと笑顔を作ってみせる。
 けれども、その笑顔はすぐに元に戻ってしまう。


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 お知らせ

 花がメインとなるエピソードのコードネームは「Wild Flower」です。


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