Sun Set Days
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2002年06月21日(金) 【Fragments】2

【Fragments】2


[Theme:最終便 by PICNICAさん]


 Little Line


 私が生まれて初めて飛行機に乗ったのは、7歳のときだった。
 当時、私は香川県の丸亀市というところに住んでいて、父と母と3人で暮らしていた。
 その当時のことは、いまではぼんやりと薄い半透明の膜がかかっているようにしか覚えていないのだけれど、それでもたくさんの怒声と、諍いの声の記憶だけはいまでも耳の奥のほうに残っている。それはいまの私の性質の根底にあるものを形作っているもののひとつで、たとえばそれは巻貝に耳を当てると微かに波の音が聴こえる気がするように、記憶の奥を掘り起こそうとすると、決まって聞こえてくる声だ。
 私は人間の記憶のメカニズムを精巧で、利己的で都合のよいものだと思っているけれど、それでも記憶の中にはシャツについて薄まることはあっても決して消えない汚れのように、完全には忘れることのできないものがあるのも事実だと思う。
 現に、私のなかにはいまでもそのとき聞いた言葉が忘れ難く残っている。


 当時住んでいた丸亀市は小さな町で、駅から15分ほど歩いたところには、丸亀城という日本でも有数の小さな城があった。
 丸亀城は亀山公園という公園のなかにあり、修復された城壁が公園内に張り巡らされていた。そんなに大きな公園ではなかったけれど、一周するとじっとりと汗をかいているくらいの大きさはあって、まだ幼かった頃の私は、父によくその公園まで連れていってもらっていた。
 当時、父がしてくれることで私が喜ぶことが3つあって、それは肩車と、右腕の力瘤にぶらさがることと、タバコの煙でドーナツの輪っかをつくってもらうことだった。そして、丸亀城への散歩は、その3つを同時に体験できることだった。
 私はその3つが好きだったから、よく公園を歩いているときに「もう疲れたよ」と歩けないふりをしたし、「しょうがねえなぁ」と言いながらどこかでは嬉しそうにしゃがんで背中を見せてくれる父に嬉々として抱きついたし、父の背中の上で、「ねぇ、あの木、なんて名前なの?」とか「あのココココって鳴いている鳥の名前は?」などというようなことを訊いていたのだった。父は鳥の名前に詳しいような人ではなかったから、「ああ、ありゃココ鳥だよ」などと、いい加減なことを言っていた。
 公園内の遊歩道を登りきった先、丸亀城のある広場には展望台とベンチなどが置かれていて、私たちの散歩のゴールはその広場だった。父はいつもベンチに座ると、一息つくようにセブンスターを吸っていた。私がせがむと、ドーナツの輪を作ってくれた。
 私はよく、そのドーナツを追いかけて、ジャンプして輪っかの部分を指で貫いてみたりするのだった。父はそんな私を見ていつも機嫌がよさそうだった。
 その広場からは、瀬戸内海と、丸亀の穏やかな町並みが正反対の方向に見えた。丸亀市は平坦な土地の上に伸びていたから、遠くまで見渡すことができたし、遠くには、家族からはぐれてしまった小熊のように、平地の中ほどにぽつんとひとつだけある山などを見ることができた。よく晴れた午後には、空に点在する白い雲の影が、町並みの上をゆっくりと移動していくのを見ることもできた。時間の流れ方が、その広場の上ではよりゆっくりとしたものになるような気がいつもしていた。私たちはよく「雲の形が何に見えるかゲーム」をしたし、地面にうつる私たちの影をつかってどんな形をつくることができるのかという遊びをしていた。
 私たちはいつも、小一時間くらいその広場にいて、それからまた家まで帰った。途中、コンビニでくだもののジュースを買ってくれることもあったし、駄菓子屋でソフトクリームを買ってくれることもあった。
 当時の私にとって、父との散歩は楽しいことのひとつだったのだ。


 その頃、父が何の仕事をしていたのかを私は覚えていない。記憶の中の父は、学校から帰ってきたときにはいつも家にいたし、なんとなく他の家のおじさんたちとは違うのだということを子供心にも感じていた。ただし、それを訊ねてしまうことははばかられたし、まだ幼かった私としては、父親が家にいてくれて遊び相手になってくれることの方が嬉しいことだったのだ。
 母はその頃、英語教室の先生をしていた。昼も夜も教室があって、頻繁に家を留守にしていた。だから、もしかしたらそれはどこかで自分を納得させようとしていたのかもしれないけれど、他の家は母親が家にいて父親が仕事をしているけれど、私のうちは逆なんだと、そう思っていた。
 ただ、父は家事もしなかったけれど。


 当時、私の家族は2DKのアパートに住んでいて、居間と両親の部屋、そして私の部屋があった。私の部屋はいま思うと間取りの関係でできたスペースを無理矢理部屋にしたような3畳間だったのだけれど、それでも私の城だった。
 私は父親と高松のコトデンそごうに行った時に買ってもらったうさぎのぬいぐるみとよく遊んでいた。そのうさぎに「メリー」という名前をつけて、いつも話しかけていた(だから数年前、コトデンそごうが潰れてしまったというニュースを聞いたときには、なんとなく悲しくなった)。夜、私はメリーを抱いて眠ったのだけれど、よく目を覚ますことがあった。それは両親の言い争いの声が聞こえたからで、扉を少しだけ開けて、父と母の喧嘩に耳をすませた。
 最初の頃、私が起きているときや私の前ではまず言い争いをしなかったから、そんなふうに寝付いた後に喧嘩をしていることには大きなショックを受けた。それで、何度かねぼけているふりをして、「おトイレ」と言って喧嘩を中断させたのだけれど、いつしかそれがたまのことではなく、恒常的に行われていることなのだということに気がついたときには、ただ眠れずに両親の争いの声を聞いているだけになっていった。深夜に怒鳴り声が聞こえ、布団から起きて扉を少しだけ開けたときに、薄暗い私の部屋に居間の電気の明かりが一本の線のように入り込んでくる。ずっと後になっても、覚えているのはそういう細部ばかりだ。
 そして、夜に行われていた喧嘩は、夕御飯の時間になり、夕方になり、昼間にも行われるようになり、アパートの部屋の中を覆う空気は、より険悪なものになっていった。私はメリーと話す機会が多くなり、まるで傍観者のように「どうしてなかよくできないんでしょうねえ」と話かけたときは、本当にどうしてなんだろうと思って泣きそうになった。当時私には友人もいたけれどそういうことを相談するには私も友人も幼すぎたし、結果として内に溜め込むことになった。どうしようもなかった。私は感情を押し殺すようになり、笑うことが少なくなっていった。
 仲がよかった頃の記憶も私にはあったから、だからなおさら悲しかったのだ。


 離婚が決まったのは、10月の終わりだった。どうしてそれを覚えているのかというと、私の誕生日が10月だったからで、その誕生日には、久しぶりに家族3人でごちそうを食べた。ハンバーグとエビフライとオムライス、それからケーキという私の大好物ばかりが並べられて、私は大好物ばかりなのと久しぶりに父と母が目の前で喧嘩をしていないこととで、本当に嬉しかった。飲み物だって、オレンジジュースに加えて、サイダーを飲んでもよかったのだ。私は母の方針で炭酸飲料を飲むことがゆるされていなかったから、年に二度誕生日とクリスマスがそれを飲んでもいい特別の日だったのだ。
 父はぬり絵と色鉛筆のセットを、母は子供用の英語の教材をプレゼントしてくれた。もちろん、私は父のプレゼントの方を喜んだ。
 父は、いつも私のへのプレゼントのピントをはずしたことがなかった。ある年には絵本だったし、またある年には溢れるくらいのおはじきとビー玉だった。そういう意味では、母はいつもどこか私が欲しいものというよりは私に与えたいものをプレゼントしてくれていたように思う。
 その日の食事が終わろうとする頃、母が私を覗き込んで言った。
「……ねえ、ナホちゃん。聞いてほしいことがあるの」
「なぁに?」
 私はそう聞き返したと思う。最後に出されたケーキがあんまりにもおいしくて、頬を膨らませていた。その当時の私は両親からの言葉に身構えることを学習していたのに、その夜にはそのガードを緩めていた。おいしい食べ物に無防備になっていた。
「お父さんとお母さんは、リコンすることになったの」
 首をかしげながら、私は母と父を順番に見つめた。当時の私には、離婚という言葉の意味がどこまでわかっていたのだろう。ただ、私はそれがあまりよくないこと、少なくともそのときの暮らしが壊れてしまうことだということだけはわかっていて、ふいに鼓動が早まった。どくん、って大きな音が部屋に響いたのではないかと思ったくらいに。
「だからね、ナホちゃんはお母さんと一緒におじいちゃんのところに行くのよ」
「……おじいちゃん?」
「そう、東京のおじいちゃんとおばあちゃんのところ」
「おとうさんは?」
 私の当然の反応に、母は言葉をつまらせた。そして、続けた。
「……お父さんはね、行かないの。ナホちゃんとお父さんは、別々に暮らすことになったの」
 どうして? という言葉は口に出せなかった。ただ、7歳の私に納得し受け容れること以外にどんな選択肢があっただろう。私は黙ったまま、そのまま部屋に戻った。
 母は私がケーキを食べている間にその言葉を発したから、私はそのケーキを残してしまった。いまの私が甘いものがあまり得意ではないのは、もしかしたらその夜のせいかもしれない。
 その夜はメリーの存在が大きかった。私はメリーを強く強く抱きしめて、その長い夜をやり過ごした。
 あの夜、父はずっと笑いたいのか泣きたいのかよくわからないような表情で黙っていた。
 ずっと。


 丸亀を離れる前日、私と父は最後の散歩に出かけた。
 10月下旬の冷たい曇天の日で、セーターを着込んだ私は、気持ちの心細さと風の強さに、言葉が少なかった。
 最初、私たちは並んで歩いていたのだけれど、どこかぎこちなかった。
「ナホ、肩車するか?」
「……うん」
 私は、以前のように嬉々としてではなく、どこか遠慮がちに父の背中に体重を預け、肩車してもらった。公園の木々はその色を紅や黄色などの暖色に変えていた。冷え込みが厳しい分、木々は自らの色を変えることで寒さを乗り切ろうとしているのかもしれない。そんなことをぼんやりと思っていた。よくわからない鳥の鳴き声が聴こえたけれど、その名前を尋ねることはできなかった。肩車は途中でおんぶになり、私は右頬を父の首元に当てて、父の匂いを忘れないようにしようとした。外の空気は冷たかったけれど、父の首の体温は温かかった。
 幼いなりに、事の重大さは理解していた。おそらくは、もう父と会うこともできないのだということも。
 ただ、それでも私の父は父だけだったのだ。その父と、離れて暮らさなければならないということがどうしてもよくわからなかった。
 広場に着いてしまうと、そこには誰の姿もなかった。平日の曇天の午後には、ただ強い風が吹き付けるばかりで、まるでその公園の高台の広場が、世界の平和を見守る見張り台であるかのように思えた。私はぐるっと広場を時間をかけて歩き回り、瀬戸内海側も反対側も目に焼き付けるように見ようとした。強い風に、私の短い前髪が揺れる。
 ふと空を見上げると、その年のお正月に、この広場で父が作った凧を上げたときのことを思い出した。あのときには、もう両親の諍いははじまっていたのだろうか? もう、来年のお正月にここであの気持ちのよい凧揚げをすることもできないのだ。
「ナホ、お城の中見るか?」
 父が言った。私たちは、いつもお城のある広場にいたけれど、すぐ目と鼻の先にあるその小さな城は訪れたことがなかった。
「ウン……」
 私が頷くと、父は入り口のところでおじいさんにお金を払い、私たちは城の中に入った。狭く急な階段を上る。途中、小さな窓から景色を眺めることができたり、ある階には日本各地の城の写真パネルがあったり、古文書のようなものが展示されていたりした。内輪が特産品らしく、城の中に何箇所か内輪を置いてあるところがあった。
 父は私が急な階段を踏み外さないか注意深く見守ってくれていた。私は注意深く足を延ばした。
 大丈夫だっていうことを、心配ないっていうことをわかってもらいたかったのかもしれない。


 丸亀城を出た後で、広場のベンチで父はタバコを吸った。「ナホ」と呼びかけた後で、ドーナツの輪を作って笑いかけてくる。そして私は本当は気が進まなかったのだけれど、いつものようにジャンプしてその輪に指を入れた。
 もちろん、父は右腕の筋肉で力瘤を作ってくれ、私はそれにぶら下がった。
 あと何年かしたら、ナホも大きくなるから支えきれないかもなぁ。
 父はよくそう言っていたけれど、結局そのときはこなかったことになる。
「そろそろ帰るかぁ」
 父がそう言った。空の低いところをちぢれた雲が早い速度で流れていた。それは、群れからはぐれてしまった一羽の鳥のように、どこか心細そうに見えた。
 私はどうしてか後ろ髪が引かれるような気がして、何度も何度も振り返った。
 そこには人気のない広場が、ただ静かに佇んでいた。


 最後の日、母と私はアパートの玄関で父とぎこちない別れを済ませ(母は自分だけアパートの1階に先に下りて、父が私を抱きしめる時間をつくってくれた)、それから丸亀駅からJRで高松駅を目指し、高松駅から高松空港までのバスに乗った。秋も終わろうとしている夕方の時間だったから、日が暮れるのが随分と早くて、街路樹を照らす街灯がすでに点灯していた。母と私はバスの二人掛けの席に並んで座っていた。最後の方はヒステリー気味だった母も、その日は物静かだった。何を考えているのだろうと顔を覗き込んでみたけれど、当時の私にわかるはずもなかった。
 小1時間ほどして空港に到着して、母が航空券の手続きをする。それから、まだ飛行機の時間には間があったので、空港の2階にあるレストランに入った。
 私はお子様ランチを、母はコーヒーとスパゲティを頼んでいた。私はお子様ランチの旗をナプキンに挟んで自分のポシェットにしまった。当時の私は、お子様ランチを食べるたびに、その小さな国旗を集めていたのだ。
 レストランを出た後、母がトイレに行くと行った。
「ちょっとおトイレに行ってくるから、ここで待ってるのよ」
 私はうんと頷いた。
 はじめて訪れた空港は、私にとっては随分とものめずらしい場所だった。そこには普段見かけないようなたくさんの人たちがいて、誰もがどこか急いでいるように見えた。私は壁を背に、母と自分の分の荷物を守るように待っていた。右手にはメリーを抱えていた。東京に行くということで、そうすることで少しでも不安な気持ちを薄めていたかったのだ。
 父の姿を見つけたのはそのときだった。
 私は父が空港にいるはずがないと思って、けれども間違いなくそれは父だったので、驚いてじっと見つめていた。
 父は人ごみの中に立っていて、私の方を見つめていた。それから、私の方に駆けてくると、私の前でしゃがみこんだ。
 膝をついて私に目線を合わせると、「ナホ」と名前を呼ぶ。
 そして、父は私を抱きしめた。強く、痛いくらいに。父の匂いがした。煙草とコーヒーの混ざったような独特の匂い。
「ナホ……」
 父は消え入りそうな声でそう言った。実際にはわずかな時間だったかもしれない長い沈黙の後、父は身体を離し、両手で私の両肩を押さえ、「……元気でな。お父さんはいつもナホのこと思ってるからな」と言った。私は黙ったまま、父の目をずっと見つめていた。目に感情というものが宿るのだということを知ったのはそのときなのだと思う。
 そして、父はそのまま踵を返し、一階への階段を駆け下りていった。
 一瞬の、本当にわずかな間の出来事だった。
 それからすぐに母が戻ってきた。
「どうしたのナホ?」
 ぼんやりとしている私に母はそう訊いたけれど、私はいま、父が空港にいたことを最後まで伝えることができなかった。


 その日の飛行機は羽田空港行きの最終便だった。
 私の席は窓際で、その小さな窓から見える景色は離陸前の赤や青色のネオンも離陸後の夜景もとても美しいものだった。
 それでも、私はそのはじめて乗る飛行機の中で、最後に父が小声で振り絞るような声で言った言葉の方を思い出していた。
「ナホ……」
 抱きしめたとき、父はこう言ったのだ。
「ナホ……お父さんと一緒にいよう、な?」
 私は答えることができなかった。そして、父は沈黙の後で搾り出すように言葉を続けた。いまにも雨が降り出しそうな雲みたいに、泣き出しそうな目をして。
「……元気でな。お父さんはいつもナホのことを思っているからな」


 私はそのときどう答えるべきだったのか、どうするべきだったのだろうということをときどき考える。
 もちろん、答えは出ない。
 私はそのとき沈黙を選んだ。もしこういう言い方がゆるされるのであれば、何も選ぶことができなくて沈黙するしかなかった。それでも選択は、ときにその人の道程に大きく長い影を落とす。だから私は随分と時間が経つまで、決断を下すことを極端に恐れるようになった。そのときに、どうすることもできなかった。選ぶことができなかったことを忘れられずに、選択を迫られるたびに、沈黙を選ぶようになったのだ。
 まるでスローモーションな条件反射みたいに。
 いまではある出来事から選択を畏れることはないけれど、それでも当時のことを思い出す度、いまも私の足元まで色濃い影が細長く伸びているのを感じることがある。
 そしてその細い影は、あの丸亀での日々の、部屋の扉を少しだけ開いたときの、居間の明かりの一本の線とも繋がっているような気がするのだ。




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 21日は23時30分過ぎに新横浜駅に到着し、部屋に着いたのは0時30分過ぎ。 新幹線の中で、【Fragments】2を書く。
 新横浜からの電車が遅れ(他の路線の連絡待ちや、ある駅では「お客様同士のトラブルのため」)、普段よりも長い時間車内にいた。
 週末の終電車のせいもあるのか、お酒が入っているような雰囲気の人がたくさんいた。
 ある駅のホームでは、ホームの柱によりかかって爆睡している若い男もいたし。

 キャリーバックをがらがらと引きながら、部屋の近くにあるセブンイレブンで「午後の紅茶」のブルーローズ味を買う。最近、また午後の紅茶シリーズのパッケージが変わったけれど、息の長い商品だと思う。
 4日開けているだけで部屋の中はむあっとしていて、冷房のスイッチを入れる。
 音楽をかけて、午後の紅茶を飲む。
 結構おいしいと思う。


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 お知らせ

 好きな食べ物は? と訊かれてカレーライスと答えてしまうことを、ちょっとどうかと思ってしまうのです。


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