Sun Set Days
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2002年06月18日(火) 【Fragments】1+またまた出張

【Fragments】1


[Theme:夜のホテル by PICNICAさん]


 Lake Side Hotel


 そのホテルは湖に面していて、周囲にはなんにも高い建物がなかったから、随分と遠くからでも見て取ることができた。冬になると私は湖畔沿いの道路を完全武装(赤いダッフルコートに耳まで被うことのできる帽子、それからブーツに手袋)のいでたちで、そのホテルを目指して歩くのだった。よっぽどの吹雪のときにはさすがに出歩かなかったから、つまり歩いているときにはつねにホテルは視界に入っていた。
 ハルのシフトは日によってまちまちで、早番のときもあれば、夜勤のときもあった。夜勤のときには午後9時から勤務がはじまり、午前6時に終わる。もしそのホテルが繁華街にあるホテルなら、飲み屋に行っていた酔っ払いの客が騒ぎを起こしたり、酔っ払いの客が備品を壊したり、酔っ払いの客がロビーで泥酔していたりするそうなのだけれど、ハルのホテルではそういうことはまず起こらない。何しろ、凍てつく北の大地の湖沿いにあるホテルなのだ。
 だからハルのホテルの夜は静かに過ぎていく。もともとがそういう客層(都会の喧騒を一人離れてのんびりと過したいキャリアウーマンとか、2人で全国の穴場的な場所をめぐっているような老夫婦とか)が好んで使うようなホテルなのだ。
 ハルのホテルは(と言っても、別にハルのものではない。ハルはただのしがない雇われ社員に過ぎない)、バブル華やかな頃に全国各地に乱立された普通と高級の中間のような位置づけのホテルで、それなりの設備と、それなりの料金と、それなりのゴージャスさがその中途半端な特徴をよくあらわしていた。バブルが弾け、ホテルまでもが弾けてしまうかと思われたのだけれど(実際、ホテルの存続は小さな町の主要な関心事であり続けた。娯楽の少ない町なので噂の好きな人が多いのだ)、それでも穴場的な立地が幸いしたのか、細々と安定した経営を続けている。
 ある日、昼間のデートのときに、ケイヒサクゲンのために、夜勤がいつの間にか1人の仕事になっていたよとハルがおかしそうに言った。本当にいつの間にかなんだ。ある日シフトを見たら、それまで2人いた夜勤が毎晩1人になっている。そのことに何の説明もないんだ。まるで、みんながケイヒサクゲンっていう名前の呪文にかけられて夜勤2人時代を忘れてしまっているみたいでおかしいよ、と。
 ということで、ケイヒサクゲンは私にとっては愛すべき呪文となった。そのおかげで、長い夜を、ハルと一緒に過ごすことができるようになったからだ。夜勤が一人ということは、フロントの奥にある世にも窮屈な休憩スペースにも他には誰もいないということで、私はその長い夜をまるで夜にしか活動できない童話に出てくる人形のように、喜び勇んで満喫するのだ。
 だから私は深夜になると家を抜け出して片道20分のホテルまでの湖畔の道を歩く。
 いまの季節は湖面は青白く凍っているし、風は頬を刺すように痛い。
 けれども、夜の心細い道路も、暖かな場所に通じていると思うと意外とへっちゃらで自分でも驚いてしまう。


 フロントに置いてある銀色の呼び鈴はお気に入りだ。上の出っ張りを指でちょこんと押してやると、震えるような柔らかな音をたてる。私は薄暗いロビーからフロントに向かい、その音を鳴らすと、そのままいつも暗闇のなかに隠れてみる(自動販売機の影に隠れたり、トイレへの奥まった通路に身を寄せたりする)。ハルがフロントの奥から出てくる。そして、きょろきょろとする。
 それから、少しの沈黙の後で、ナオ、と少しだけ怒っているような、それでいて次の瞬間には赦してくれているような、独特のトーンの声で言う。私はその言葉をちゃんと味わうために暗闇のなかで目を閉じる。その言葉はまるでバニラアイスクリームの上にかけるコーヒーのように、熱く柔らかく暗闇を溶かしていく。いい声をしていると思う。ハルは素敵な声をしている。
 ハルは私を甘やかすポイントをよく知っている。まるで私の甘やかし方のガイドブックでもちゃんと読んでいるみたいに。そういうのって、不思議なことだ。
 私たちは長い夜を、人気のないロビーや、フロントの奥にある世にも小さな休憩部屋で過す。たまにフロントの内線電話が鳴ることもあるけれど、そんなときにも私はうっとりと仕事をしている恋人の横顔を見つめている(仕事中の恋人は素敵だ)。休憩所で抱き合ってキスをすることもある。ただ手を握っているだけのこともある。長い夜の間中ずっとしりとりをしていることもある。しりとりの最初は「ホテル」から始まる。私がいつも「ホテル」とスタートするからだ。だから、ハルは「る」ではじまる単語をたくさん知っている。
 ロビーの奥、日中は喫茶店になっているところには湖に面した大きな窓があって、夜の闇の向こう側に、月の光が寂しく照らす湖面が見えている。このまま永遠に終わることがないのではと思えるような冬のなかの、すっかりと氷に覆われている湖。
 雪が降っている夜も多い。そんな夜には私たちは窓際の席に並んで座って、まるで夜勤の人の眠気を覚ますことだけが目的みたいなコーヒーをすすりながらその一枚の絵のような景色を見つめる。ときどき、ハルは喫茶店の冷蔵庫から生クリームをくすねて、それを私のコーヒーカップの上に落としてくれる。世の中に幸福というものがあるのなら、それは深夜3時に恋人がコーヒーに落としてくれる生クリームのことだと私は思う。


 私たちの特等席は、喫茶店の一番窓側の席だった。窓際の席からはどこでも湖がよく見えるのだけれど、私たちが選んだその席は、なかでも一番美しく湖が見えるのだそうだ。ハルがそう言った。喫茶店の人に教えてもらったのだという。笑顔が素敵なハルは、喫茶店で働いている人たちとも仲がよい。見た目はバブル期の中途半端なホテルだけれど、中身は田舎の、アットホームなホテルなのだ。
 私はその椅子に膝を立てて座り、ハルはぼんやりとまるでずっとぴくりともしない釣り糸を眺めているみたいに窓の向こう側にある湖を眺めている。
 ハルはあんまりよく喋る方じゃない。
 どちらかと言うと寡黙な方だと思う。
 それでも、ハルはとても暖かな目をしているし、手を伸ばして手の甲で私の額に触れるときの感じがとても優しかった。それが手の平であれ手の甲であれ、手は人を表わすとおばあちゃんはよく言っていた。だから私は手が優しくない人は決して好きにならない。それに関しては自信がある。いままでもそういうふうにだけ恋をしてきたし、そうと決めている。


 ときどき、本当に稼働率が低い平日の深夜には、ホテルから出て目の前の道路を超えて湖畔にまで出て行くこともある。
「職務放棄よねえ?」
 と、私がちょっとうかれて言うと、
「……ナオちゃん、振り返ってみなよ」
 と、ハルは諭すように言う。振り返ってみると、確かに9階建てのホテルの窓はそのほとんどが消えていて、ただ風だけがびゅうびゅうと吹いている。目の前の湖はまるで世界の果てみたいに随分と荒涼としている。そんな深夜に、誰かがフロントへの内線を入れたりするはずがない。
 北の大地にはたくさんの湖があるけれど、湖畔にホテルが一軒しかないのはきっと私たちの町くらいだ。
 空の星ばかりが満天に輝いていて、地上の方では、ホテルのわずかな明かりだけが周囲をぼんやりと照らす。
 静かな湖畔。
 冷たい空気の中で、この夜が永遠に続くんじゃないかと思う。


 それでも午前5時を過ぎる頃になると、私たちの長くて短い夜も終わってしまう。まるで魔法が解けてしまうような気がして、私はいつもなんとか抵抗しようと思うのだけれど、その術がわからなくてもどかしくなる。
 いつも何か言いかけるのに何も言えない私に、ハルは「ほら」と車のキーをくれる。「まってて」という言葉と一緒に。
 ハルのフォレスターのキー。キーホルダーはミッキーで、昔ディズニーランドに行ったときに買ったのだそうだ。鍵をもらうとき、「誰と行ったんだっけ?」という質問をするのが私のお約束になっている。ハルはいつも「オヤジ」と答える。いつか違う人の名前をうっかり言ってしまわないかなとちょっとだけ思っている。もしそんな名前が出てきたら、いたたまれない気持ちになることはわかりきっているのに。
 私は一人で鼻歌を歌いながら駐車場の一番奥に停めてある車のところまで向かい、助手席の扉を開け、両手でそのキーホルダーをもてあそんだあとで、キーをちょっとだけ回してカーラジオをかける。
 夜明けのカーラジオはいつもさびしい。夜の終わりを同じように名残惜しく感じている人たちがこの空の下にはいるのだなと思って、なんだか泣きたくなる。
 曲がヴォーカルつきのものからインストルメンタルに変わっていく時間帯が特にだめで、夜が終わるのだということを実感させられてしまう。


 6時になったら、ハルは夜勤を終えて、駐車場をゆっくりと横切って運転席にやってくるだろう。
 そうしたら、私はハルの運転で家の近くまで送ってもらう。歩けば20分の道のりも、車ならあっという間だ。
 私はその時間になると、どうしてかうまく言葉を探すことができなくて、ずっと黙ったまま、窓の外を流れていく電灯の明かりと凍った湖を見つめている。
 そして湖の反対側に、ゆっくりと朝が訪れようとするのを見つける。
 そのたびに私はいつも少し失望し、少し安堵する。
 それは夜のホテルで過ごす時間が、どこかおとぎ話のように風変わりで、そのまま夜の中に閉じ込められてしまうような気がするからなのかもしれない。
 



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 昨日は23時に部屋に帰ってきて、早速Fragmentを1本書こうと思っていたら、書いている途中で力尽きる。
 今朝は5時起きで、毎度のことながら6時5分発の電車に乗って、6時30分のひかりにのって、名古屋を目指す。
 名古屋で17時前まで仕事をしてから、今度は後輩と2人でタクシーで名古屋空港へ。
 日本代表の試合は、その空港までのラジオで聴いていた。
 残念な結果に終わってしまったけれど、事実残念だけれど、それでも本当にお疲れ様だと思う。
 車内で後輩と、今回の日本代表はすごかったねという話をする。

 18時40分のJAL便で福岡へ。
 JEXという小さなタイプの航空機はちょっと新鮮な感じだった。まあ、羽田→福岡なら大きめの機体でも、名古屋→福岡ならこんなものなのかなと考える。
 前に同じ路線に乗ったときにはどうだったのかは覚えていないのだけれど。
 1時間と少しで福岡に着いてしまうのにはやっぱり驚いてしまう。

 小さな窓からはちょうど夕暮れが見えていて、ものすごく奇麗な色をしていた。
 日は随分と長くなったと驚いてしまう。
 本当に、そんなふうに唐突に季節の変化について実感させられてしまうので、普段自分があんまり季節の微細な変化のようなものに注意をはらっていないのかもしれないと思う。
 それはちょっと残念なことではあるのだけれど。

 博多駅の近くのビジネスホテルに着いたのは21時前。
 これから、羽田から最終便で福岡にやってくる上司を待ってラーメンを食べに行くのだけれど(定番)、それまでの間にFragmentを書き上げてしまう。せっかく立ち上げたので、まずは1本目はアップしたかったし。
 最初の頃は手探りが続くだろうけれど、少しずつマイペースで、続けていこう。
(さっそくリクエストしていただいてありがとうございました。まだまだリクエストは募集しています)

(ここまで書いたところで電話がかかってきたので、ラーメンを食べに行ってきた。タクシーで天神まで行って一風堂に行ってきた。ついさっき帰ってきたところ。韓国がイタリアに勝ちました! すごい! これは隣の国では大変なことになっているのだろうなと思う)

 明日は博多で仕事をし、夜には今度は大阪に移動することになっている。そして、大阪に数日滞在した後横浜に戻り、それからちょっと遠くへ出かけるスケジュール。


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 お知らせ

 Fragmentsはマイペース更新です。

 Fragmentsは、emailかBbsでリクエストしてもらった単語(名詞。ただし、今回の[夜のホテル]のような複合系も可)に関連する断片(掌編)を書き連ねていくシリーズです。
 ただし、emailの方で、自分がリクエストしたことをオープンにしないでほしい方は、匿名希望でと書いていただければそうします。


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