先月末で奨学金を完済した。大学を卒業して半年の猶予、そして20年の返済。その日が先月末に来た。まだ実感がなく、今月もいつも通り返済の口座に入金した。当たり前だが引き落としはまだない。そして自分の間違いでなければ、その引き落としはないはずだ。
進学校に行っていない、塾や予備校に通っていない。そういう事実は「めっちゃ頭が良かったんだね」で済まされてきた。「いや、めっちゃ貧乏やってん」と言うても「いやいや」と済まされる。
最近便利な言葉を覚えた。「うちな、シングルマザーで5人兄弟やってん」
めっちゃ便利な言葉だ。そりゃあ塾には行けないわな。ていうかよく高校に行ったなレベル。大学の進学費用はどう工面したのか小一時間問い質したいレベル。
事実、行けた高校は自宅近くの公立で、当然のように学費免除だった。私学はどうなのか知らないが、公立学校の学費免除は成績がいいからではなく、貧乏人救済のためのシステムなので、世帯収入が基準を下回ればただになる。それでも全額免除はハードルが高かった。もちろん「シングルマザーで5人兄弟」なら余裕で突破する。
そんな高校の授業は退屈すぎた。文句の言える立場ではないのだが、生まれた家に関わらず適切な教育を受けられる世の中になってほしいと心から思う。
学校教育に絶望した自分は、一刻も早く学校生活を卒業し、自立して生きていくことを目指した。中2から中3になろうかと言うときに生まれた、父知らずの妹の存在もそれを後押しした。仕事で家にいない母。今ならヤングケアラーという言葉があるが、当時はそうではなかった。
無駄としか思えない学校生活、生きていくためのアルバイト、そして妹の世話。「クラブ活動? なにそれおいしいの?」状態で、部活に勤しむ高校生活なんてなかった。授業が終わると妹のお迎えに保育園に行き、あと二人いる妹も含めてご飯を食べさせて下の妹をお風呂に入れ、絵本を読んで寝かせる。長期休暇は学校に行く時間の代わりに工場などでアルバイトした。自分の高校生活は、バイトと妹の世話だけだった。
「自立したい」その思いだけだった。高校を卒業し、ようやく学校に行かなくてもよくなったと思ったが、当時週休二日制度のない工場でぼろ布のように働き「もしかして学がないからこんな目にあっているのか?」と悟りを啓いた。
当時の公立高校の授業料は、年10万もなかったと記憶している。たしか3−6万くらいか。それが国立大学に入ると、いきなり10倍以上に跳ね上がった。大学に合格したときは、喜び以上に学費の恐怖に慄いた。ようやく安堵したのは、「全額免除」の決定を頂いた時だった。
借りれるだけの奨学金も頂き、いろんな方に援助していただいて大学を卒業した。自分的にはこれ以上の奇跡はないんじゃないかと思った。国家試験に合格したときは、合格を知らせてくれたパソコンモニターの前で号泣した。生きててよかった、と思った。
最近奨学金に関する記事を目にする。まるで奨学金が悪のような扱いを受けているのも見るが、自分にとってはこれ以上ないレバレッジだった。
じゃあさっさと返せや、という議論もあるだろうが、「貧困は再生産する」のです。そこからの脱却が自分の人生のテーマだったが、たまたま家族の中に成功者がいたとして、他の人はそうとは限らないのです。
「シングルマザーで5人兄弟」。3番目はアル中で、もうすぐ死ぬだろう。残念だがアル中が救われないのは職業柄山盛り診てきた。彼らは死ぬことで解放される一面もあると思っている。
5番目は20年以上弟だったが、数年前に妹に変貌した。めっちゃ生きづらいのだろうが、彼女なりに生きている。
愛する娘はかわいい孫を二人産んだが、夫のDVで孫ともども殺されかけた。実の親にも連絡先を教えてはならないDVシェルターを経て、理不尽な離婚裁判も戦いようやく解放された。ただあまりに若く母になった娘にできる仕事はあまりなく、ようやく仕事を見つけても、予測しない熱を出す孫がいて仕事は続かない。その辺の理解に乏しい世の中と、DVした上に養育費放棄をしても許されるこの社会はどうなんだろうと思う。
そんなわけで、自分が稼いでも消えていく収入。資金繰りをしながら、中小企業の社長はこんな感じなんだろうなと思う。普段の仕事に加えてこっそりバイトする日々。そして細々と奨学金は返済してきた。
それも完済した。まだまだ人生は続くが、一つの区切りになったのだろうと思う。
|