解放区

2002年08月15日(木) 白骨

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。

一生すぎやすし。

いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。

我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、
おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。

されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、
ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、
桃李のよそおいをうしないぬるときは、
六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、
ただ白骨のみぞのこれり。

あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、
たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ。



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さて、私たちの浮き草のような生涯を、ここに立ち止まって眺めれば、
ここに生を受け人間として生き、あっという間に死んでいかなければならない
夢幻のような人生ほどはかないものはない。
この世に生を受けて、まだ一万年も生き長らえた人はいない。

一生はすぐに終わりを迎える。

私たちは誰もこの先百年だって生きることはできないのだ。

私が先に行くのか、人が先なのか、今日命終わるのか、明日なのか、
そういうこともわからないし、みんな長生きだ短命だなどと言いあっているが、
誰もが草花の幹の雫が落ちる間、
あるいは、葉先の朝露が乾くまでのような、一瞬の生涯に身を置いているのだ。 

だから日が昇る朝には、夢と希望に燃えた若々しい顔を見せていても、
日が沈む夕方には、誰もが白骨となるのだ。

どんなに長生きしたいと思っていても、
諸行無常の真理の風がわが身に吹いてくるときは、
ふたつの眼は一瞬のうちに閉じ、呼吸も止まり、
あの若々しかった顔も一転して、冷たい色あせた様相になる。

そうなると親族一同集まって泣き伏しても、もう元には戻ってこない。

それでも、このままにしておくわけにはいかないと火葬場に送れば、
後にはただ白骨が残るだけである。

こんなに悲しいことが他にあろうか。

さあ、この厳粛な人生の事実は、
私たち誰でも、年寄りであろうと若かろうと、避けられない深刻な問題なのだから、
みんな今まで考えたこともなかった、この世の背後に広がっている真実の世界を求めて、
阿弥陀如来の明るい眼をこの身にいただき、
南無阿弥陀仏の教えを尋ねていきたいものである。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。



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