日常妄想
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2002年06月25日(火) |
『例の事件について。』のこと。 |
子猫虐待事件について。
先月の初旬、ひとりの青年に虐待され、その写真をリアルタイムでWeb上に晒されながら、信じられないような無惨な最期を遂げることになってしまった子猫に対し、哀しみと憤りを感じてはいるが、現在のわたしは傍観者である。ちょうど、テレビで現実に起こった殺人事件や幼児虐待事件を観たときとおなじような。
犯人は、検挙はされているものの、実刑を下されることなく、何事も無かったように通常の日常生活に戻る可能性が大きいらしい。目にあまる仕打ちに、犯人を厳しく罰せよ、子猫が可哀想だと、署名を集めているひとたちがいることを、サークル仲間のBBSへの書き込みで初めて知った。書き込みをくださったAさんは、真摯な姿勢で、このことを話していた。ひとりでも多くのひとに協力をしてほしいのだと訴える。Aさんは、ご自宅に猫を4匹飼っているので、尚更に犯人が許せないのだろう。偶然か、Aさんの書き込みと時をおなじくして、最近覗きにいくバロックのサイトさんでも、署名運動を進めているサイトさんへのリンクを新しく加えたところがあった。
協力を求められて初めて、2chの関連記事を読み、本当に酷い、無惨な写真も見た。詩作のスレとパソコン関連のスレにときどき出入りをしていたわたしは、事件そのものは知っていたが、嘆かわしく思うだけで、詳しいことを知ろうとはしていなかったのである。やるほうもやるほうだが、それを面白がって煽る輩もいるのだから驚愕だ。どういう環境がこういう人間を生み出すのか。社会の歪みの現れなのか。それこそ『バロックマーダー』である。信じられないような理由で、信じられない殺しかたをする。写真は、これが現実にあったことなのだと思えないほどに惨い。
事件の詳細をある程度知ったいまでも、わたしは相変わらず傍観者の立場に甘んじている。Aさんは、身の回りの人間が、面倒がり、無関心な人間ばかりで腹が立ち、哀しくてしかたがないと言う。わたしも、Aさんから見れば、そのなかの人間のひとりだろう。サークルで知り合ってからいままで、ずいぶん親しくさせていただいていたが、今回のことをきっかけに、疎遠になるかもしれないと、わたしは思っている。Aさんはわたしなんかよりもきちんとした大人で、感情に流されることは無いとは思うが、それでも、いままでと変わらない付合いは難しくなるのではないかと危惧している。家族とも言えるペットに関係する事柄には、誰でも強く心を動かされるものだと思うので。
哀しく、憤りを感じる。そう、それはわたしだっておなじだ。しかしわたしは、そこで疑問を感じてしまうのだ。Aさん個人と言わず、人間は基本的に、ペットになる動物などが何らかの酷い目に遭うと、哀れむほかに、犯人を激しく避難することが多いと思う。今回のケースは、法に守られる立場に無い子猫が犠牲者なので、哀れみや怒りという感情のほかに、人間が被害者になる場合よりも「守ってあげなきゃいけない」という義務感が強くなって、署名などの行動に駆り立てられるのではないか。しかも、人がどうにかされてしまった場合と違い、相手が動物の場合は、刑が甘いことが多いようなので、尚更に。
殺人事件や幼児虐待などでは、直接事件に関わっていない人間が、犯人をどうにかしてくださいという署名を集めたりという表立った動きをするのは、まれなことだと考えるのだが、実際はどうなんだろう。臓器移植の為の募金を募る呼び掛けなどはわりあいテレビなどで目にするが…… このへんを考えると、わたしのなかで、覚めた部分が出来上がるのだ。どうして動物の虐待については立ち上がる人間が多いのに、自分達人間のことになると、ヒトの不幸というポーズを取るのか。人間以外の生き物を思いやれないケースもおなじように問題だけどね。罪も無いのに殺されてしまった子猫は可哀想だと心から思うが、あまりにいっしょうけんめいなひとたちの様子を見ると、正直な話、複雑な気持ちになってしまうのである。気が退けてしまうというか(苦笑) ひとの、なんとかしなければと純に感じて突き動かされる気持ちは、先述のようにわたしにもわかるのだが(偽善だと言ってるんじゃないんです)、わたしはときに、そのなかに人間のエゴを見てしまうのである。
決して、『動物ごときにムキになるな』とか、『犯人を許してやれ』などと言っているのではないので、これを読んで憤慨しているひとがいるのなら、どうか誤解をしないでいただきたいです。わたしは、人間のエゴ丸出しのところが、人間のこういうところが凄くイヤなんです。人間は、動物よりも自分たちの立場が上だと思いがちだ。動物を、自分たちの好きなようにしようとする人間の傲慢さが、どうも鼻についてしまうのだ。 犯人が、署名者が、というのではなく、ただの生き物として人間をひっくるめて考えると、よくも悪くも、人間はエゴの塊だ。人間のエゴが動物を虐殺し、反発のため立ち上がらせ、かたや傍観者にする。天然記念動物の場合も似ている。人間のエゴが、絶滅危機に追いやり、人工繁殖を研究させ、保護を義務付ける。なんて勝手な…… ( ̄ー ̄;)
こうして文句を言うわたしも、自分のエゴで物事を見るエゴイストなのでしょう。今回の事件の場合、犯人は既に検挙され、調べられているので、警察や裁判所が今回のことではどういう判断を下すのか、今後の展開をよく見守ろうと考えている。 犯人の男には、26年間でしたか、生きてきたなかで積み重なった、複合的な問題があると思うので、子猫が可哀想だから罪を重くしてくれ、と個人の気持ちをぶつけるだけではなく、犯行の異常性の部分を強調しないと、問題の根本からの解決は難しいだろうと思う。『可哀想』では済まない事件なのだから。こうした残忍な事件の殆どが、そうであると考えられるのとおなじように。だから、現在のわたしは、犯人に近しい人(家族とか知人とか)や、専門機関の判断を待とうと考えている。 現実問題として、その判断に妥当と思われるものが望めなそうだから、署名運動が起こっているのだろうけど(苦笑) 距離を追いて事件を見るための言い訳や、論点を履き違えた詭弁に聞こえるかもしれないが、わたしは、こういうことを考えていて、そのうえで様子を見ていようとしている。
しかし実際に、自分の家や、ごく身近なところで惨殺事件が起こされたとしたら、わたしも惨殺された愛すべきものに報いるために、なにかをせずにはおれないだろう。 結局、自分に深く関係する事柄に対してしか行動を起こさない……
とりあえず、おなじエゴなら、ひとや周囲に良い影響をもたらすエゴのほうがいいに決まってる。深く首を突っ込まず、傍観したいというエゴイストより、事件の酷さを訴えるための署名を集めたいというエゴイストのほうが、絶対、なにかのためになる。皮肉のようだけど、そうじゃなく。こういう小さな運動から法律が動くこともある。 事件を模してか、動物虐待事件が続いているらしい。こういう、信じられないような人道に悖る行為をするよりも、それを見て見ぬ振りをするよりも、犯人を罰するために奔走するほうが素晴らしいというのは、常識であり、わたしでも知っていることだ。
+いろいろ、だらだらと書いてしまったが。自分のなかで、気持ちの整理がつかないので、それを見るために、吐き出して列ねてみましたという感じです。積極的に動かないのは、子猫の死を冷たくあしらっているからだ、と端的に思うのは違うと思う。積極的に行動を起こしているひとが、極度の動物愛護者だと考えるのも間違っている。ひとことでは片付かない問題。冷静に見極めなければならない問題。それゆえ、ぐるぐると考えている。
真実は、人間各自のなかにある。だからいろいろ難しい。人間には自我がある。自我があるのが人間。エゴを抱えるのが人間なのだ。……なんだかねぇ……結局何がなにが言いたいんだか意味不明になってきましたが。 ときどき、そんな人間であることがしんどい。
(020626 03:10 UP) 一部、意味をわかりやすくするために付け足しました。(020626 13:52)
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