日常妄想
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2001年10月11日(木) 『欠け月』のこと。

+あやや。一週間近くもあいだを空けてしまったな。私的サイトの日記は続けて書いてたのだけど。役割分担計画が、なんだかますます曖昧に。向こう、全然『ひとこと』じゃないっスよあれじゃ(笑) まぁ、こちらは、より深く、よりマニアックに書いていく、ということで書き分けを…( ̄▽ ̄)

+この数日間は、私的サイトの改造計画をちまちまと実行したり、部屋の大掃除をしたりしていた。Javascriptをよそさまよりお借りして(ちゃんとお願い済みですよん)、TOPのイラストがアクセスごとにランダムに入れ代わるようにしてみたり(まだ三通りしか無いけど)、こちらでは、前からやりたかった羽根が降るのをやってみたりして、動きを出してみた。これによってアクセス数があがるかというと確証は無いのだが(見た目だけ整えても、内容が無ければ、ひとの心は掴めないと思うし、web上では、自分をアピールしなければ、サイトがあることすら気づいてもらえない)、自分的には、自分のサイトにますます愛着が湧いて、嬉しい。ますます楽しい。
サイトは、わたしにとって、それ自体が作品だ。情報やイラストを貼り出すためだけの場所、というのではなく、なんというかこう、体裁とかもそれなりに考えて、本を一冊まるまるデザインするみたいな、そんな気持ちで作っているつもりだ。あとは、とりあえず内容の充実にも力を入れたいものよのう…(苦笑)

+もともと、サイトを作りたいという目標があって、見易く、かっちょいいものを作りたいと思っていたから、パソコンを買い、ソフトを買うときに、迷わずWeb Collectionを選んだ。Photoshop、Illustrater、GoLive、LiveMotionのセット商品だ。どうせ使うのだから、金額としては高くても、おトクなパックでいっぺんに買ってしまおうという頭。(バラで買うより何万も安い…)
パソコンを買う前に、転職を念頭に、趣味を兼ねて(実情は殆ど趣味のため・笑)、スクールに通っていたので、PhotoshopとIllustratorは、なんとか基本の基本ぐらいは操作ができる。スクールは、DTP中心の講座を受けたので、web関連は勉強をしていなかったが、知識が無くても簡単にサイトを持てるGaiax系のサイト作りから入り、しばらくは、タグ辞典を調べながらの手打ち、そして、GoLiveを使い始めた。GoLiveは、関連雑誌も買って読んだり、実際に使うことで、少しづつだが扱えるようになってきた。

+わたしのサイト作りのための環境は、われながら、贅沢なほど揃っている。掛けた金額のことを考えると目眩がしそうなくらい( ̄▽ ̄;)はううう サイト作りをしている知人が身近なところにはおらず(わたしの交友関係が狭いのもあるが、友達は皆、わりとサイト作りには縁遠い…)、気軽に相談する、というようなことがしづらいのだが、そのへんは、web上で調べようと思えば補うことも可能だし、書籍も世間には山のように売られている。実際、パソコンを自分で買うこと自体が初めてのわたしのこと。わからないことだらけだったが、素材を作るために使うソフトの使いかたの基本は習っているし(使いこなせている、とはウソでも言えないデース・笑)、なんとか、現在のところまではこぎつけているのだった。

+そう。環境は、勿体無いくらいに整っているのである。でも、とにかく、わたしのすることは中途半端なのだ。なんにせよ、一朝一夕にはいかないのは周知のことだ。GoLiveにしても、便利に使えるとはいえ、使いこなすのには、自分で使って、勉強せねばならない。わかっているのだが、しかし、わたしのしていることはどうだろう?

+形や気分から入るわたしには、そのへんの掘り込みが、決定的に足りないように思うのだ。試験前に、参考書を買うだけで満足してしまう学生のようなものだ(苦笑) 努力をすれば、あるいは、もっと興味を持てば、伸びるものもあるかもしれないのに、それをしないのだ。調べるにしても、ひどく下手である。と言うか、ツッコミが足りないので詰めが甘い。
自分の怠慢のせいで、いつまでも、なんだか中途半端な技術…技術だなんておこがましいな、中途半端なことしか知らない、中途半端なことしかできない、のだ。それが、とても歯がゆく、苛立たしく、呆れる。

+焦り、もあるのだけど。なかなか思い通りにならないこともあったりして、悔しいのもある( ̄- ̄) せっかく持っているものを、持ち腐れにしないためにも、いろいろな面で優れたサイトやものを創作するためにも、日々勉強だなぁと、つくづく思う今日この頃である。

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+サイト作り…と言うか、パソコンの技術のほかに、わたしは、自分の趣味に関しても、至極中途半端だ(言ってみれば、好きで始めたので、パソコンも趣味のひとつなのだが)
わたしは、昔から絵を描き、高校のあたりから文章も書くようになったが、しばらく、と言っても二年ぐらいか。そのときの気分で、絵を描いたり、文字を書いたりとフラフラしていた。

+わたしは、ひとつのことに集中すると、それと同時に、たくさんのことを上手くこなすというのが苦手な質である。絵と文について、別に、両方をやることは、好きずきだし問題は無いと思うのだが、要は、その取り組みかただ。最近はめっきり、文を書きはじめる前のように、イラスト描きを主にするという生活で、文と言えば、たまに思いついた詩を書いたり、こうして日記を書いたりしているだけだが、小説を書いたりしてもいたのだった。(書こうとしていた、だな。正確には)

+海外小説にハマったことから、翻訳に興味を持ち、そこから、文章を書くこと自体の面白さにハマっていた。高校を卒業したころ知り合った友達が、小説を書いていたというのもあって、わたしの小説熱は、しばらく上がってもいた。小説とはいっても、書いたものは何本も無く、物語というには、かなりオソマツなもので、いまだに完結させられないものもある。
だらだらと、好きなことを書きなぐっているという感じで、作品とはいい難いようなものだが、愛着があり、文章を書くのは、こうして現在も好きだ。小説の続きは、もうずいぶんと書いていないけど。

+で、そんなこんなで、小説というか、文章を書くのが面白くて、友達も書いているというのも刺激になり、一時は、どこかに投稿してみようかなぁとも思うほどだった。(文学じゃなく、ライトノベル系ね。) 才能は、ハッキリいって無い(笑) 構成力が無い。視野が狭いので、知識の引き出しも無い。あるのは、自分のキャラクタアに対する愛情だけ。それでも、好きこそものの上手なれで、ガムシャラに書きまくっていれば、小説という形にも慣れて、きちんとまとまった『作品』といえるような文章が書けるようになっていたのかも知れなかったのだが(デビュー云々という意味じゃなく、あくまでも形として)、煮詰まってくるとイラストを書き始めたりして、身になるような努力をしなかった。当然、上達はしない。

+自分の知識の無さ、視野の狭さを、知識も文才もある友達と比べたりして、落ち込んだりして。比べても、仕方無いのにね。それまでの生きかたが…ものの考えかたや、見てきたものがそれぞれ違うのだから(苦笑) 過去は変えようがないのだから、自分に足りないと思うなら、この先の努力で補うしか無い。その、欠落したものの重さにへこむ。好きで仕方無いのだけど、自分の至らなさに、だた、へこむ。努力もしないうちからね…

+で、小説は結局、自分のアラばかりが目についてしまい、自分が達成しなければならないことの多さに、どうしたらいいのだか皆目わからなくなり、とりあえず書くというのが上達のコツでもあるのに、遠ざかってしまった。書きたい気持ちは、まだあるのだけど、上手く行かないのが苦しいのだ(苦笑) 努力をせず、体裁ばかり気にするのも問題なのだろう。

+才能の有無はさておいて、結局は半端なのである。このとおり、小説はほぼ投げ出し状態。かと言って、イラストもたいして身についていない。イラストは、わたしが幼稚園とかのころから好きで、ずっと続けてきたことなのだが、仕事ができるようになったらいいのにと思いつつ、コンテストの公募もろくにしていない。やっぱり、努力をしていない。これでは、どう考えても趣味止まりだ。みんな中途半端。わたしの、フィーリングで生きている部分を、よく物語っている。なんだかなぁ。好きなだけじゃ、どうにもならないんだよ? 現実は(苦笑)>miath
そしてわたしは、人間としても宙ぶらりんだ。

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+部屋の大掃除をしていると、小説を書いていた当時、親しかった別の友達からもらった手紙が出てきた。『地に足をつけて、よく考えたほうがいい』とある。わたしが、小説を書いていることについて、そう書かれているのである(笑) 文字書きの友達に引きずられて書いているように見えたのだろう、わたしに対して、いままでどおり、イラストに力を入れて描いていくべきだ、と言っていた。『地に足を…』に続く文を、あえて省くと、欄外にメモってある。この友達は、自分の本心は少しも明かさないのに、巧妙に核心を突いて、相手の本心を探ろうとする傾向がある。手紙の存在は覚えていたが、内容の詳細までは忘れていた。読み返してみて、過去のことなのに、相変わらずだなと、笑った。

+当時のわたしは、おそらく、頭にきていたと思われる。どうせ才能無いさとか、なんでひとが好きでやっている趣味にまで口出すんだろうとか、いつもこれでもちゃんと考えてるよとか、苦笑したという程度ではなく、ムッときていたように思う。わたしも相変わらずである(笑)

+抽象的な言葉には、そのときの自分の心情を映し出すという効果がある。形の曖昧さを補完するために、自分で想像せざるを得ないからだ。前後の言葉から考える。何を指すのか。隠す理由は何か。続く言葉は何か。自分は、何を言われているのか。そうして、こういうときに自分の脳裏に出てきたことが、心の裏側に沈んでいる本心であること、自分の素の視点であることに気づくことが、多かったりする。
小説は結局、しばらくイラストと順繰りに書いていたが、書き上げることもなく、もちろん投稿することもなく、引き出しのコヤシになっている。この友達の言葉でやめたわけではない。ただ、『自分をもっとしっかり見てみろ』という意味である言葉が、長く引っ掛かっていた。

手紙は捨てた。けれどまた、おなじ言葉を気にする自分が居る。


(1012 02:07 UP)


書いてる人:ミァハ(双星たかはる)
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