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2007年07月02日(月) |
90年末くらいの帰省(多分 |
国内線も全部禁煙になったもんで、いい機会だしタバコ気にしなくてもいい鉄道で帰省した時の覚えてるだけのいろいろ。
もう多分その頃は学食と生協以外では寄り付かなくなった学校へ学割もらいに行ってから、紙に全部書き出して切符は作ってもらった。タバコが、はいいけど少なくとも鉄道だけで何百キロ以上は間違いなく「ぜいたく」な頃ではあったので片道だけ、判りにくい乗車券と特急券他と。夏だったと思うけど当日夜は下宿Tに駅まで送ってもらった。
1日目:
夜行の特急オホーツク。中学校の時から不思議だったけど、絵入ヘッドマークになってからは多分唯一日本語とロシア語が併記されている不思議な列車だ。うんオホーツクてのが英語じゃないからそうなんだろうけど。JR北海道では、おおよそ日本の一般的な常識とはかけ離れた北海道の運輸事情に合わせ「雪に強い」とかなんとか辰巳琢郎が宣伝してたような気もするが、まあ確かに夏はともかく冬の都市間移動と言えば峠の有無はともかく真直ぐ走っててもどうにもならない感じのアレだったがまあそんなことはともかく、札幌から道東(北見網走な遠軽以東)を結ぶのに重要だった特急オホーツクが定期的に1日に5往復くらい走ってて、んで夜行も上り下りあった頃。高校の頃そういう鉄道がエライ具合を見たくて何もかも震えるほど最強な急行宗谷の、まあいいや。
上りオホーツク10号、183系、多分23時前後。もちろん自由席でしばらく寝る。
2日目:
ぼんやり寝てたが、遠軽でちゃんと目を覚ましつつそれから坂登ってるだけで眠れなかったり、車掌さんに一応途中で降りるからごめんなさいよろしくね的なこと言いつつ、でも旭川で長時間停車あるんでそうなると無条件で改札出てコーヒー買ってタバコ吸いに出たり、まあ鉄ヲタなばっかりにたまに夜行乗ると大変なんだ。この頃になると旭川くらいまでなら近いコンビにでも何でも知ってたもんで。最速で戻って残り停車時間は積極的に睡眠時間とする。でも自分の乗ってる列車の時刻くらいは覚えられた頃なので車掌さん煩わせることもなく起床。多分5時前くらい。深川。
この秋に深名線が無くなると聞いていたので、実は既にもうそんなに熱心に廃線を訪ねるようなでもなかったけどそういう感じで下野。少し待って名寄行きのDC(多分キハ40か53)2両くらい、通学な客が偉い早い時間な朝練向けなのかああご苦労なこって、、、つう記憶はある。夏の盛りだしそんなに印象ないくらい覚えてないんだ。草の匂いと土の匂いと、普通に乗ってて気持ちいい路線だったとも。そういう予定だったのでどっか良さそうな駅で、、、湖畔駅で下車。次の名寄行き来るまでぼんやりしたり写真とったり。誰が置いたのか、ノートの書き込みが寒かった。恐ろしく誰も居ないので線路降りたり、いろいろ。名寄→旭川。
訳の判らないいてまえ改造上等な大鉄管内な俺らでも「在来線最速」とか言われると気になって仕方なかった785系「スーパーホワイトアロー」で札幌まで。まあ軌道ありきだよな、と納得。札幌からすぐ乗り換え、最新な281系「スーパー北斗」で函館へ。これも当時道内最暑だった高速バス対抗路線で勝ち続けてるはずの新鋭車輌だったがずっと寝てた。
駅前のどうでもよさそうなホールで当時いろいろひどかったマンクラをペシペシ始める。サンドがないとか箱が1000発用の小さい懐かしい今なら灰皿掃除用のアレだったとかはまあともかく恐ろしいほどひく、しかも赤7多い。当時等価で1が上等だった北見からすればこれはちょっとおいおいてな具合に電話したけどここ函館だしもうすぐ列車の時間だし、、、交換したら8枚だしw
函館駅のやたら太いだけのイカ天ソバ食うだけで幸せ。このちょっと前下宿のみんなに食わせたらみんな納得行ってない顔してたけど。
夜行な客レはもう最後だと思ってたので函館からは大阪まで特急「日本海」とってみました。
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ってここまでうろ覚えで書いてて明らかにおかしいことに気付いた。深名線の廃止は95年で、ウルトラマン倶楽部は多分CT全盛な頃だから98年夏以降で、んで俺様が大阪行き「日本海」で向かいの席の石川県は加賀のおっさんと語ったのは俺様がもう学校辞めるっていった98年以降でさらに実家帰ったら知らない間に新築だったからやっぱり98年以降の、、、
よくわかんないけど見てのとおりいろいろまずいんだ。