シオの日記

2002年08月11日(日) マリア

マリアと言えば、聖母マリアのことを思う。

私は。

マリアは女神であり、救いを求めるものに癒しを与える。
元祖癒し系?(違)
・・・じゃなくて(滝汗)


なにかから救われたいと思っているものに、救いを与える存在。
絶望の淵にいても、暖かな励ましをくれる。
柔らかな許しを与えてくれる。

正月もクリスマスもお盆もバレンタインもやる人種の一派だ。
宗教的な意味合いはない。


だけど、『彼ら』は私をマリアだと言う。
初めてマリアだと言われたときは、何の冗談かと思った。
けれど、『彼』は本気だった。
きっかけはささいな会話の一片。


私は。
マリアじゃない。

もしかしたら、『彼ら』にとってのマリアだったのかもしれない。
それはそれで構わない。
でも。

私に押し付けないで。


それだけ。


マリアを望まれるのは構わない。
勝手に望んでいたらいい。
望むのは勝手だ。
拝むのも、祈るのも勝手にしたらいい。
けれど、マリアを押し付けないで。

マリアを押し付けられたら、私は救われない。

マリアは人を癒す『女神』

別格なのだ。

それを。

押し付けないで。


マリアを望む人に、望みどおりのマリアを与えることが出来るかもしれない。
それなら私は精いっぱい努力しよう。
けれど。
それでは「私は」救われない。
ともに居たいと思うならば。
マリアを求めないで。

「私も救われたいから」

想いが募るのは、優しいマリアのため?
誰もが許さなかった。
自分もが許せなかった。
そんな人を許したマリアを、
許される、救われるマリアを、失いたくないから?

それならば、私は側にいられない。
私は誰も否定したくない。
その人の生き方があって、好き嫌いはあっても、誰も否定できないはず。

多くの人が嫌う人生ならば。
初めて「過去は過去で変えられるものではない」
そう言って、一言も攻めず、受け入れたことが。

たった一度も自分が許せなくて、
誰からも『忘れるのが一番』と言われた出来事ならば。
「何も忘れる必要はない。ずっとずっと抱えて生きていけばいい」
そう言って、想いを認めて、許したことが。

『彼ら』には絶大な救いだった。
彼らを救ったことを私は労力だとは思わなかったし、
それで『彼ら』の表情が明るくなったから
私はそれで嬉しかった。
けれど。

縋らないで。

一人で立てない人間が、
人に寄りかかられても、上手く立てなくなるのと同じ。
マリアを押し付けるのは縋るのと一緒だから。


マリアを演じるのは嫌いじゃない。
それで誰かが救われるのなら、私は喜んでマリアを演じるだろう。
一人でも救われるのならば。
ただ、私は「演じている」マリアだから。
いずれはボロが出る、不完全なマリア。
演じつづけるのも、ずっとともに居て欲しいと願うことも無理な話。


結局、私もずっと求めているから。
マリアと限定するつもりはない。
ただ「私も」救いを求めているから。
それを。
私も人間であることを。
万能ではないことを。

彼らにとって、マリアだったものを、私も求めているから。


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