マリアと言えば、聖母マリアのことを思う。
私は。
マリアは女神であり、救いを求めるものに癒しを与える。 元祖癒し系?(違) ・・・じゃなくて(滝汗)
なにかから救われたいと思っているものに、救いを与える存在。 絶望の淵にいても、暖かな励ましをくれる。 柔らかな許しを与えてくれる。
正月もクリスマスもお盆もバレンタインもやる人種の一派だ。 宗教的な意味合いはない。
だけど、『彼ら』は私をマリアだと言う。 初めてマリアだと言われたときは、何の冗談かと思った。 けれど、『彼』は本気だった。 きっかけはささいな会話の一片。
私は。 マリアじゃない。
もしかしたら、『彼ら』にとってのマリアだったのかもしれない。 それはそれで構わない。 でも。
私に押し付けないで。
それだけ。
マリアを望まれるのは構わない。 勝手に望んでいたらいい。 望むのは勝手だ。 拝むのも、祈るのも勝手にしたらいい。 けれど、マリアを押し付けないで。
マリアを押し付けられたら、私は救われない。
マリアは人を癒す『女神』
別格なのだ。
それを。
押し付けないで。
マリアを望む人に、望みどおりのマリアを与えることが出来るかもしれない。 それなら私は精いっぱい努力しよう。 けれど。 それでは「私は」救われない。 ともに居たいと思うならば。 マリアを求めないで。
「私も救われたいから」
想いが募るのは、優しいマリアのため? 誰もが許さなかった。 自分もが許せなかった。 そんな人を許したマリアを、 許される、救われるマリアを、失いたくないから?
それならば、私は側にいられない。 私は誰も否定したくない。 その人の生き方があって、好き嫌いはあっても、誰も否定できないはず。
多くの人が嫌う人生ならば。 初めて「過去は過去で変えられるものではない」 そう言って、一言も攻めず、受け入れたことが。
たった一度も自分が許せなくて、 誰からも『忘れるのが一番』と言われた出来事ならば。 「何も忘れる必要はない。ずっとずっと抱えて生きていけばいい」 そう言って、想いを認めて、許したことが。
『彼ら』には絶大な救いだった。 彼らを救ったことを私は労力だとは思わなかったし、 それで『彼ら』の表情が明るくなったから 私はそれで嬉しかった。 けれど。
縋らないで。
一人で立てない人間が、 人に寄りかかられても、上手く立てなくなるのと同じ。 マリアを押し付けるのは縋るのと一緒だから。
マリアを演じるのは嫌いじゃない。 それで誰かが救われるのなら、私は喜んでマリアを演じるだろう。 一人でも救われるのならば。 ただ、私は「演じている」マリアだから。 いずれはボロが出る、不完全なマリア。 演じつづけるのも、ずっとともに居て欲しいと願うことも無理な話。
結局、私もずっと求めているから。 マリアと限定するつもりはない。 ただ「私も」救いを求めているから。 それを。 私も人間であることを。 万能ではないことを。
彼らにとって、マリアだったものを、私も求めているから。
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