カラジ風味

2003年11月23日(日) すなふきん


釣れない いないのか?  (ヘタ?)。

読書の意味
文は人なり 立派なものも有りそうでないものもあるだろう
コーチ
カラジに解かりやすく話された
過去の文化に簡単に触れる方法は本を読む事である
これはまた歴史上の偉人と友人になる為の唯一の方法でもある
然し本を読むとはそれほど簡単な行為ではない 少し考えて
みれば当たり前の事であるが読書にもそれ相応の訓練が必要である

読書とは針の穴から隣人を覗き見てその全人格を了解するが如き
ものである 文は人なりとは作品に表れた著者の人となりを汲み取る
技術を持った者 即ち与えられた針の穴を等身大にまで拡大しそれを
飲み干せる技術を持った者のみが実感し得るのである
当世風に言えばその人となりを一旦言葉と言う名の細胞に分解して
通信回線を用いて送信し受信側にて再構成する
この回線に当たるものが書物であり再構成する技術が即ち読書術である

人類史上初の活版印刷の開発者「クーテンベルグ」の昔からインター
ネットで喧しい現代まで出版及びその他の情報伝達手段の最高速の
更新には確かに目を見張るものがある 然しながらそれを受け取る側の
我々の受信速度 即ち読解の速度は全く向上していない それどころか
寧ろ大きく減退している と言えるのではないか
何故なら 嘗ての日本人が愛した俳句短歌などの「言わずもがな」の
文化を味わう能力が衰退しきって何事に対しても無闇と多量の説明を
求めその量の多さをもって「わかりやすい」とか「親切丁寧」である
とかの評価を下しているからである 一つの事柄を自分の問題として
理解するのに多くの文を要するなら それ即ち読解速度の低下を意味
するのでなくて何だろう
結局 
読書とは言葉を仲介として他人を了解しそれを自らの鏡として用いて
自身を知る作業に他ならない そうした機会を手軽に与えてくれる
それが人類共通の財産たる書物なのである 従って「読書が出来ない」
と自分を見つめ発見する機会を失う恐れすらある 
未来は決して学べない 我々が学べるのは「過去」だけである
よく言われる事であるが 我々は過去という名の馬に跨って誰も
知らない未来に乗り出すのである その際も簡便にして祭も効果的な
方法が「読書」なのである
 勿論 必要以上に遺産にしがみついて受動的に生きて行く人生など
青年の欲するものではないから受け取りを拒否するのは全くの自由で
ある 然し譬え空っぽでも財布ぐらいは持って歩かなければ貰った
お金を入れる場所もない 非情の時には打つ手がなくなる 
正しい言葉の感覚は若いうちに養わなければ手遅れになる
如何なる天才も先人の肩に乗らなければ見渡せる範囲など高々
知れたものである 況してや 凡人の言わんをや。

プロジェクトX に於いて
「湯布院」を取り上げていた。
 


 < 過去  INDEX  未来 >


カラジ [MAIL]

My追加
-->