子供であろうが大人であろうが言葉を用いる以外に 相互理解の方法はない だからこそ一刻も早く指導するべきである などという考え方 には賛成しかねる そもそも その意味 特に隠された残虐性を 理解も想像も出来ない子供が徒に「民主主義」なる言葉を弄んで 討論に及べは殆どの場合声の大きな子供が声の小さな子供を圧するに 留まるであろう弱者救済とばかりに意気込んで議論を進めても結局 早熟な強者に新たな武器を与えるだけで終わってしまうであろう そして両者の溝は一段と深まるのである 言葉そのものの生い立ちに戻って少し考えて見よう 民主主義は広く知られているように英語「デモクラシイ」の訳語である この英語の元はラテン語であり更にその起源を遡れば古代ギリシャ語の 「民衆の支配」を意味する言葉「デモクラテァ」に辿り着く ところで我が国では鎌倉時代以降「下克上」なる言葉が使われだした これは字義通りに「下の者が上の者に克つ」と解釈されるのが 一般的である 従ってこの言葉は公の場ではうっかり使えない強さを 持っている ところが件の辞書にはこの説明に先立って「でもくらしいトモ解スベシ」 と書かれている 下克上が≪でもくらしい≫であり民主主義も≪デモ クラシイ≫であれば「民主主義とは下克上の事なり」となる 実際下克上を実力が虚名を廃する事と読めば現在我々が民主主義なる 言葉に抱く感情とそれほど変わらなくなる逆に民主主義という言葉の 中に本来の下克上の語感に相当する強さを見出す事も出来るだろうし 案外それが民主主義の本当の姿かも知れないのである 若し家庭内に下克上を持ち込むなどと言えば誰しも大いに腰が 引けてしまうだろうが「家庭内も民主主義で行こう」と言えば 何か麗しき事でも起こりそうに思ってしまうのではないか ここにも言葉遣いの難しさが見て取れる 人は言葉を用いる以外相互理解の方法は無い 従って討論もその方法 技術など基本的な要領を学ばねばならない だからこそ「民主主義」 なる空語を用いずにただ素直に「話し合え」と言えば好いのである 子供にとって重要な事は平時に於いては知力が腕力に勝り互いに他を 尊重し議論を以って事を決していく態度が多くの他人と暮して云う為の 必須の要件である と体感できれば充分なのである 火を囲んでお互いを知る 贅沢な事だなカラジ 僕もそう思います コーチ
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