おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
何に反対か、ではなく、どうしたいかだ。
反対するのが目的では不毛だ。 左派の中には、ヒトラー風のコラージュをプラカードにしてデモをする人たちがいる。右派の中には、岡田氏の顔をフランケンシュタインのようにコラージュしてネガティブキャンペーンをしたりする人がいる。 それでどうしたいのか知らないけれども、左右に関係なく不快である。不快な事をする人たちには近づきたくない。そのようなことをすればするほど――仲間内で盛り上がるだけで、仲間でない人には疑念を抱かれるだけだ。 ある左派の人が、政権支持者の気持ちを変えるには、どうすればいいのかマーケティングを行うべきで、不快なデモを繰り返しても、政権支持者の気持ちは変わらないと主張していた。それはそうだが、たとえ、そのマーケティングがうまくいって、たくさんの人が右から左に鞍替えしたら、左が増えて右が少なくなるのかというと、そうはならない。 一時的にバランスが左に傾くことはあるかも知れないが、そうなると右はそれに負けまいと力をつけようとする。その動きは何年もかかってのことだから見えにくいが、左に傾きすぎれば次は右に傾くことになる。その繰り返し。 左右ではなく、なんにでも、ここしかないというドンピシャな一点、中心というものがある。思想、考え方として(だけではないが)住むならそこだ。では、左右はいらないのかというとそうではなく、左右がなければ中心は見えてこないのだから必要だ。 だが、左右に真理はないと気付けば、それは見るだけにして中心に住もうとする。それがいちばん楽というか、自然だからだ。 ○○党、あるいはその支持者と言った途端、立場でモノを言うようになる。ニュートラルに、こだわりなく、左右とも理解して、ここという一点をすっと行えないようではダメだと思うんだ。
おおみち礼治
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