おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
いま、自殺に関する本の編集をしているのだけれど、まあ、いくつか思ったことがあったので、こっそり記してみる。
なぜ、自殺を考えてしまうほどに悩むのかといえば、よりよく生きたいからではないか。 死にたいのではなく、本当は自由自在に生きたい。人生を謳歌したい。しかし、それができないため苦しむ。自殺は良くないというなら、よりよく生きようとしないことだ。 よりよく生きるとは、ある人は例えば立派な仕事をして金持ちになることかもしれないし、またある人には、気に入った相手と結婚することかもしれない。健康のこともある。 それができなくて苦しいというなら、「自分はできません!」(もしくはその通りです)と認めてしまうのもひとつの手だ。 しかし、生きにくかったり、苦しかったりするのは当たり前である。そういう世界だからだ。ある番組で、中学生が「楽しくないなら生きていてもしょうがない」などと言っていたのを見て笑ってしまったことがある。当たり前のことを、気に入らないと言われたところでどうにもならぬ。もちろん、楽しいこともあるけどね。 自分の人生は自分のものである。他人に依存しても他人は責任を取ってはくれない。他人の顔色をうかがって、あっちにいったりこっちにいったり、他人を中心にして、自分が空っぽでは必然的にそうもなる(自殺願望を持ったり自傷行為をする)だろう。実際、ネット心中を考える人は、他人任せであることが多い。私に言わせれば、厳しいけれども、そうやって生きてきた結果として自殺を考えるまで追い詰められてしまったのだから、他人に寄らず、自分はどうしたいのかはっきりさせることこそ急務といえる。 自分はこうです、と素直に、高らかに宣言して生きれば、それがどんなになさけないものであったとしても、他人もおさまるところにおさまってゆくものだ。うつ病であっても、それは現在の自分の反応として、そうなっているだけだし、一生そのままであることは絶対にない。あ、反応しているんだあ、でいい。がんばるから精神的にきつくなり、疲れ切ってしまう。自分は自分のできる範囲のことをすればいいのだ。変に普通であろう、有能であろうなどとと思わないことだ。 それ(自分)がわからないからこそ苦しむのだが、頭で考えたところで自分は見えてこない。頭脳派の人は、いちど頭を空っぽにする必要がある。そして、自分はどうしたいと“感じているのか”に注視すべき。 リスカにしても、やめるやめないではなく、その前――なぜ、自分はそんなことをするのか、したくなるのか、行為そのものの前、原因を理解しなくては繰り返すだけである。 世の中は自分の都合でできているわけではない。都合とは、自分のなかにある“こだわり”である。こうではない自分はダメだと苦しむのだ。 人や環境のせいにする人もいる。 他人や環境がどう見えようとも、それは自分がつくりだしたのである。そのように見える、思ってしまう自分がまずあり、また、その人をそうしている自分の理由というものがある。 この世は、自分のことを他人にわかってもらうためではなく、自分をわかるためにある。他人は自分であり、自分は他人である。他人は自分をわかるためにいる。類は友を呼ぶ。自分と同じフィルターの持ち主が身近にいる。 せっかく他人を通して教えてくれているのに「ひどいなあ」と思うだけでは、生きている意味がない。こだわりやフィルターという苦しみの原因がわかったら捨てる作業をする。たいていは気にくわないことだから直視するには覚悟がいる。しかし、この作業を無視して前には進めない。 その場にしゃがみこんで苦しみを訴えても誰も助けてくれない。表面的、一時的に助けてくれても、本質的な助け、救われとはほど遠い。自分をそうしたのが自分なら自分を助けるのも自分である。他人を恨んでも始まらない。それはお門違いである。 精神的なものを捨てるには意識することだ。 こういうこだわり、考え方、既成概念はいらない、と整理しておく。すると、それらが出てきたときに、あ、これはいらないものだ、とわかる。すぐにはなくならないが、続けていると消えていく。 そして、そのままでいいのだと気づくのである。死にたいと思おうが思わまいが人間は確実に死ぬ。そこは安心していいと思うのだ。
おおみち礼治
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