おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
痛みを知らないからどつくのか、というとそういうわけでもない。殴られたら、そりゃ殴り返すだろう、というのも間違い。どっちも魂が若いね。
痛みを知っていたって、ぶち切れればぶっとばす。だが、それをしないのは「いけないことだから」ではなく、理解があるからだ。なぜ、自分が殴られたのかその理由を深いところで理解できる人は殴り返そうとはしない。我慢するわけでもなく、きれい事でもなく、殴ってくれたことに感謝することができるようになる(殴った人に、というよりそのような現象を起こしてくれた背後のものに)。 痛みを知っていようがいまいが、自分の中心にはかれば、やたらと人をどついたりはしない。痛みを知らないのが悪いとなると、では、痛みを教えなくてはならない、ということになり、不自然な形で大人は子どもをボカスカ殴らなくてはならなくなる。それはおかしい。殴らなくてはいけないこともあるが、これは相当タイミングが難しい。それと痛みを知らなくてはならぬ、とすることとはぜんぜん違う。 目には目を、歯には歯を――殴られたら殴り返せ、という意味と共に、右の頬を殴られたら左の頬を差し出しなさい、という意味もある(と思った)。どうぞ、もっとやってください、ということだが、宗教者(研究者ではなく実践者)はそれでいいにせよ、おれはどっちもいやだな。ではどうするのかというと、理解する。徹底して理解する。それ以外のことは大したことではない。
おおみち礼治
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