新・よりぬきオゲ井さん
クズんなってGO!

2001年07月18日(水) A.I.

そしてデイビッドは幸せに旅立ってゆきました。
めでたしめでたし。                 
おわり。



モチーフが「ピノキオ」であるのだから、
素直に「お伽話」として観ればよいワケであり、
いろいろツッコんだりするは野暮というものであろう。
むしろ、2人の超大物神様級監督が30年の歳月を費やして作り上げた
大掛かりな「ピノキオリメイク版」なのではなかろうか。

いやしかしそもそも、
キューブリックが、30年間あたためて来たプロットを
スピルバーグに託したのはなんでなんだろうなあ。
単に時間と技術の問題?
神様達のやることはアタシ達には計り知れぬなあ。
てか、事実そうであるように、
この映画を観た人の何割かは確実に
「キューブリックの作ったやつが(も)観たかったナァ」と、
呟くことは想像に難くなく。
アタシも御多分にもれずその内の1人であり。
まず最初の感想が
「キューブリックが作ってたらどんな映画になってたんだろうなあ」デシタ。



そして、ツッコむのは野暮だと云いつつも、


「その愛は真実なのに その存在は、偽り」


この映画における「愛」の定義ってナニ?
「偽り」=「ツクリモノ」であるとすればこの場合「愛」だってそうでないの?
デイビッドはあらかじめプログラムされていた「愛」の機能を
強制的に「ON」にされただけであって、
それはセクスロボや子守りロボに組み込まれている「機能」と
同列のモノ、とアタシは受け取ったワケですが、
そしたらそれって「真実」ナノ?
あ、「ON」にしたら解除不可能てトコがネックなのか?
もともと「愛」てのは脳の電気信号であるとも言えるワケだし。
でもでも、それだからこそ「真実の愛」てのは
その電気信号に得体の知れない何らかのアレが加わったとこで
語られるのが常なのではなかろうか。

初めは作りモノだったはずの「愛」が経験、成長を経て「真実の愛」に変わってゆく。
てのならよくある話だけど、
デイビッドは成長はしてないよねえ。
決して報われることのない愛という感情を与えられてしまった永遠の子供は
諦めることも絶望することも、死ぬことさえ出来なくて。
しないんじゃなくて、出来ない。
だから肥大して暴走。
いや、そこまではイッテませんネ、スイマセン暴走しましたアタシが。

つまり、ボクは哀しい木の人形。
それでもピノキオは成長しておじいさんのところへ帰って来たけど。
デイビッドは2000年待つしかなかったという残酷なおはなし。

つか、あの展開はスゲェよな。

そして一番印象に残ったのが、
セクスロボジョーの「俺はここで生きた。そして消えてゆく。」
でありましたのですが、
「存在が偽り」であるのなら、このジョーの言葉はどうなるのかー。

つうか、ジュード・ロウ良いよね。アゴの割れッぷりとかとくに。

いや、つまんねかったとゆっているのではなく。ぜんぜんなく。
観る人によって果てしなくいろんな観方ができる映画だと思いました。
なんかね、
良いとか悪いとか、つまるとかつまんないとか、泣けるとか泣けないとか、
そんなことより、こう、作品自体に、呑まれたっつうか。
なんかわかんないけど、ほえー。てカンジ。
個人的には。


あと、
子供ロボ&愛という点で「メトロポリス」が思い出されますが、
「A.I.」における「愛」は
第三者(ロボット製作者)によってあらかじめもたらされているモノなのに比べ
「メトロポリス」の「愛」はあくまで「生まれる」モノとして描かれているところは、
やはり宗教感の違いなのかにゃあとおもった。




さー、次はパールハーバーだ。
デカイスクリーンで観れるウチに観とかなきゃ。


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