Mother (介護日記)
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2004年11月10日(水) |
母の評価につながるのなら |
私が頑張って公に認められることが母の評価につながると思うと、 今回のことは非常に残念だった。
母は、私が評価されることをとても喜んでいた。
小学校で班長になったことや、 中学で放送委員長になったこと、 高校で生徒会副会長になったこと。
合唱団のメンバーに選ばれたことや、 市の文集に載ったこと、 歯の衛生週間のポスターが入選したこと。
銀行に就職できたこと。
たいしたことではないのだけれど、 母にとっては、それぞれが自慢すべきものであった。
「みんなに“トンビがタカを産んだ”と言われる」 と笑っていた。
両親を早くに亡くした母が、親戚らにとってお荷物であったことは間違いなく、 私もそれを肌で感じることもあった。
私は母の期待に応えるように、頑張っていたような気もする。 私が高く評価されれば、母に対する周りの目も違ってくるような気がしていた。
母の告別式での喪主挨拶は、 母の人生や子育てがどうであったかを、 わずか3分で見て取れる“発表会”のようだと考えていた。 私がコケれば、母が恥をかく。
下書きする時間もなくぶっつけ本番であったが、 「しっかりと立派な挨拶だった」と褒められた。
<喪主挨拶>
特別難しいことを述べたわけではない、普通の挨拶であったが、 “あの母”の“この娘”にしては・・・と言う意味を含んでいたのかも知れない。
つい先日も、銀行で会った遠縁の叔母から言われた。
「私がこの夏に下田(母の故郷)に行った時、あなたのお母さんの話が出てね。 お母さんは、若いころ苦労しただろうけれど、晩年は幸せだったね。 葬式の時、あなたがしっかり挨拶をしてた、って。 あなたが立派になって、いろいろ看てくれてお母さんも幸せだったね、って みんなで話していたんだよ」
母が亡くなっても、私の評価はそのまま母の評価につながるんだ。
先月、私が台風の経験を地元新聞社に投稿したのだが、 掲載されたその日の10時に、母方の従姉妹から電話がかかってきた。
従姉妹とは言っても、60を超えただろうか。 叔母と呼ぶ方がしっくり来る。 この従姉妹は、母を姉のように慕ってくれ、 母は、この従姉妹を妹のように思っていた。
投書を読んでくれたとのこと。 新潟の地震直後だったこともあって、たいそうな評価をいただいた。 良く書けている、もっともだ、と。
どこか自慢話しになってしまうのだが・・・
みんなが、私を見ることによって母を思い出してくれている。 私が頑張ることで、母の評価が高くなる。
だから、やっぱり欲しかった。 一生に一度、あるかないかの栄誉。
母を知るすべての人に、私の活躍を知って欲しかった。
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