Mother (介護日記)
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今日はなぜか笑えない。
ケアマネから電話があってお昼前にやって来た。 私は会いたくなかったが、 母はケアマネを「器量良し」だと言って気に入っていたから断らなかった。
「苦しそうでしたものね・・・」 その言葉を聞いて初めて、 昨日までの弔問客の中には1人もそんなことを言う人がいなかったことに気付く。 この人に経過を話すのは非常に空しかった。 本当は、通夜や本葬のように堂々としていたかったのだが・・・
彼女が持って来たのは菊と紫の切り花だった。 花瓶がないし私は菊が好きではないので、つい放置してしまったら夜には枯れ始めた。 バケツの水に入れたが、もう、元には戻らないみたいだ。
所用で外に出た。
近所の定食屋の経営者夫人にあった。 会釈だけで通り過ぎようか、話しをした方がいいだろうかと迷っていたら あちらから声を掛けられた。
「お宅のおばあちゃん、亡くなったんですってね」
母は、以前、この定食屋の隣のアパートに住んでいた。 絹江がお泊りをした時は、たまに夕飯をここに食べに来ていたと聞いていた。
まだ涙が出ないのだと言うと、 自分なりにやることはやった、と満足している人は涙が出ないものだと、 自身の経験を交えて言った。
銀行に着いたところで振込先のメモを忘れて来たことに気付いた。 もう戻っている時間はない。 諦めて明日にしよう。
郵便局に行って、母の通帳を記帳した。 窓口で死亡の旨報告をしたが、年金や恩給などの手続きが終わってからで良いと言われた。
市役所の出張所に行って保険証などを返却したら、弔意金と葬儀費用の一部金がもらえた。 年金関係は、電話で書類を取り寄せるか、 直接それぞれの省庁に出向いての手続きだと資料をもらって帰って来た。
夕飯の材料を買うため、スーパーに寄った。 知っている人には会わなかった。 会って話しを聞いて欲しいような、会わないでおきたいような、複雑な心境であった。
日記を読み返したら、 医師からの余命宣告のわずか翌日に意識が薄れて来て、あわてて退院させたことを知った。
余命宣告の翌日の金曜日、年配の看護婦とすれ違った時、 「だいぶ、弱ったわね・・・」 と言われたので、 「1週間ぐらいのうちに退院することに決めました」 と答えたが、 「1週間なんて持ちそうにないから、早い方がいい」 と助言を受けた。 「それなら、明日、主人が休みで部屋を片付ける予定になっているので、 ベッドが間に合わなくてもいいから、片付き次第、迎えに来ます」 と決め、 看護婦はすぐに“明日退院”の手続きを始めた。
ところが、夕飯の後(ほとんど食べないが)、あたりをしきりにキョロキョロとし始め、 そのワリにこちらの話し掛けに対する反応が鈍くなったため、 私は不安になって看護婦を呼んだ。
血圧は異常なし、酸素は93%で心配するほどではなかったが、 『ここで今夜置いて帰ったら明日がないかも知れない』 と思い、 連れて帰ることを即断した。
既に7時近くで、看護婦は夜勤の数人しかいなくなったところ。 各病室を回り、検温や血圧測定やおむつ替えなどをしなくてはならない多忙な時間だ。 非常に迷惑だとは思いながらも、しかし、ここは遠慮している場合ではなかった。
「退院許可が明日付けになっていますので、 今日は“試験外泊” という名目にしておきましょう」 と言って、 嫌な顔ひとつせず、手続きをしてくれた。
レフティーは仕事を終えていつものように私を迎えに来た。 そこで連れて帰ることを告げて、荷物の一部をまとめて先に車に運んだ。
母にガウンを着せ、靴下と靴を穿かせた。 レフティーが抱いて車椅子に乗せたが、それも一瞬迷うような体力のなさだった。
今は、母といつどのような会話をしていたかを読み返して確認するのが怖い。
私が後悔するとすれば、 意識が半分薄らいでからの退院であったこと。
あと1日早ければ・・・ 3回目のパルスをしなければ・・・
『連れ帰ったら1週間』 という日記を読んでいて気付いたのは、 1週間、と言うのは、私の言葉であって、 医師は「まぁ、そのくらい」 と曖昧に答えている。 続けて 「退院までにもう一度パルスをやれば、2,3日は持ちます」 とも言っている。
最初から、誰も1週間持つなんて言っていなかったし。 私が勝手に1週間だって思っていただけだったし。
医師は「急速に」 「急激に」 としか、言っていない。
極め付けの「2,3日は持ちます」
連れて帰れば即日だったんだね・・・
だったら、もっと早く、意識のしっかりしているうちに帰りたかった。
「帰りたい」 と言うときに、なぜ「じゃぁ、今、帰ろう」 って言えなかったのか・・・
亡くなる1週間前に撮ったビデオ、今はまだ見ることができない。
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