| 2004年10月30日(土) |
僕は誰の生まれ変わり? Two Famous Men |
日テレで放映の「松紳」をみていると、二人(島田紳助、松本人志)がお互いの生まれ変わりの有名人をいくつか挙げていました。 どうやら、没日が自分の誕生日以前でその間隔が狭い人を1代前、更に没日がその1代前の人物の誕生日以前でその間隔が狭い人を2代前の人物であるとしているようでした。 僕も、人が生まれ変わるのだとしたら、もしかしたらこの人の生まれ変わりなのではないか?という人を下に挙げました。
【1代前】 能見正比古(のみまさひこ)1925年7月18日〜1981年10月30日 東大工学部卒業後、同大学の法学部に在籍しながら、日本での放送作家の草分けとして活動を開始。雑誌編集長などを経たのち1976年に血液型人間学の最初の著書として「血液型でわかる相性」(青春出版社)を世に出す。その後出版される血液型著書が次々と話題を呼び、第一次血液型ブームを引き起こした。 執筆活動、テレビ出演、講演等で活躍する中、1981年講演の壇上にて倒れ、急逝。
【2代前】 エリック・サティ1866年5月17日〜1925年7月1日 ノルマンディーのセーヌ川河口の町オンフルール(Honfleur)で生まれた。母はロンドン生まれのスコットランド人でプロテスタント、父はノルマンディーの生まれでカトリックであった。サティの父は海運の仲介業をやっていた。これは祖父の頃からの実業で、曽祖父は船長だった。1歳下に妹のオルガ(Olga)、3歳下に弟のコンラッド(Conrad)が生まれる。1870年の普仏戦争の後、仲介業をやめて一家はパリへ出る。しかし、まもなく母親が他界してしまい、子供達は郷里の祖父母の元に預けられ、オンフルールの学校に通った。 オンフルールの学校でのサティの成績は良くなかったが、妙に音楽好きであった。それに気づいた祖父が聖カトリーヌ教会のオルガン奏者で聖歌隊長のヴィノー(Vinot)にピアノを習わせる。しかし、少年サティを感化したのは気まぐれな遊び人の叔父アドリアン(Adrian)であった。逆に旧弊でとりわけ教育に頑固であった父親は、独力で息子を教育しようとパリに呼び寄せた。 翌1879年、父親はコンセルヴァトワール(音楽院)出身の正統派ピアニスト、ウージエニー・バルネッチ(Eugenie Barnetsche)と再婚する。息子のエリックは彼女に嫌悪を持ち、コンセルヴァトワールに反感を抱くが、生涯にわたる官製芸術への抵抗はここに始まるといってもよいだろう。にもかかわらず13歳のサティはパリ音楽院に入学し、デコンプ(Descombes)にピアノを、ラヴィニャク(Lavignac)にソルフェージュを習った。音楽の他には読書に熱中し、とりわけアンデルセンに陶酔した。 18歳の1884年にマティアス(Mathias)のピアノのクラスへ進学するが、この年に恐らく処女作と思われるピアノ曲「アレグロ」が作曲された。翌85年にはトドゥ(Taudou)の和声学のクラスにも入る。だがトドゥはピアノに集中すべきだと説き、マティアスは作曲に向いているというので、サティはノイローゼになってしまう。そしてついにコンセルヴァトワールを飛び出し、志願兵に応募してアラスの歩兵連隊に入隊する。しかし、軍隊生活が音楽院よりも好ましい環境であるはずがない。サティは軍隊生活から抜け出すために、わざと重い肺炎にかかり、やっと市民生活に戻ることができた。 兵隊に行く前に、2つのピアノ曲「ワルツ・バレエ」と「幻想ワルツ」、コンタミーヌ・ド・ラトゥール(Contamine de Latour)の詩による「3つの歌曲」を作曲している。1887年に前者は雑誌「家庭音楽」に掲載され、後者は転業した父親の出版社から発売された。ナポレオンの子孫だと自称する些かうさんくさいド・ラトゥールはフローベル(Flaubert)の信奉者で当時流行の神秘主義思想に浸っていた。サティはこの友人と連れだってモンマルトルの丘を徘徊し、大いに感化された。フローベルの「サランボー」や「誘惑」を何度も読み返し、数年後に出会うばら十字教団のジョゼファン・ペラダン(Josephin Peladan)のエロティック神秘小説「至高の悪徳」を読み知った。 国立図書館とノートルダム寺院の間を往復しながらサティは、ギリシャ文化やゴシック芸術に心を奪われ、グレゴリオ聖歌に夢中になり、中世が胸の中に膨らんでいった。その最初の現れである作品「オジーヴ」は既に作曲されていた。パリのボヘミアンたちのたまり場「黒猫」の常連であったサティはついにそこの第2ピアニストの職を得、家族と離れてモンマルトルの麓のコンドルセ街に小部屋を借りて独りで住んだ。これからサティの本格的な作曲活動が始まる。 サティの創作期と作風は、およそ次のように分けられる。
1.1886年〜1890年(20歳〜24歳):初期の古代舞曲風ピアノ音楽 2.1890年〜1898年(24歳〜32歳):秘教的神秘主義時代。薔薇十字会に属し、モンマルトルに住む。ドビュッシーとの友好 3.1898年〜1914年(32歳〜48歳):ユーモリスト時代。パリ郊外の工場地帯アルクィユ=カシャンに転居、「四本煙突」と呼ばれるこのアパートについに死ぬまで住み着く。スコラ・カントルムに入学。黒い上着に山高帽と傘というサティの服装の決定版ができあがる。 4.1914年〜1918年(48歳〜52歳):ダタイストからキューピストへ。コクトー、「フランス6人組(オーリック、デュレ、オネゲル、ミヨー、プーランク、タイユフェール)」の面々との接触、革命的な舞台作品。 5.1918年〜1925年(52歳〜59歳):家具の音楽の時代。 こうした時代区分は、しばしば曲解を生みやすい。作曲家のスタイルには時期的な戻りや重なりや分岐があるためだが、サティの場合も幾通りかの時代区分が行われてきた。しかし薔薇十字会の聖歌隊長のサティも家具の時代のサティも、彼の精神と哲学が目指したものは変わっていない。 肝臓が悪くなって日々弱々しく痩せていくサティを、ジャン・ヴィネの計らいでグランドホテルの部屋に移したが、肋膜炎の悪化で聖ジョセフ病院に運ばれ、1925年7月1日に貧しく死んでいった。享年59歳。貧困と安酒のせいの早い他界だった。これより7年前に55歳で世を去ったドビュッシーが、胸中に隠していたただ1人のライバルであった。
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