死じゃよ。生命のない物質から生命が発生したという事実にも関わらず、彼らは死という言葉で生を説明しようとしない。自然界においては、死とは平衡状態のことであり、生命活動に必要な外からの補給がなくなったときすべての生命が達する自然な状態なのじゃよ。だからな、論理的に言えば、生の定義は『死の欠如』ということになろう (「生きる屍の死/山口雅也」p167、l12〜より抜粋)
ロメオが死んだ時が、生物学的にどうであれ、ジュリエットが死んだ時なのだ (「生きる屍の死/山口雅也」p168、l8〜より抜粋)
それはとても奇妙な絵だった。横長の画面は上下半分ずつに区切られた構図の断面図になっていて、上部には教会の礼拝堂が描かれ、床板一枚隔てた下部には地下の納骨堂が描かれていた。明るい礼拝堂では着飾った男女がひしめきあい、ダンスにうち興じている。ところが、薄暗く陰気な地下納骨堂では柩の中の骸骨が虚ろな目で会場の騒ぎを見つめている (「生きる屍の死/山口雅也」p197、l3〜より抜粋)
自分の死―この死は考えるのに一番手こずる。人間は生きている限り自分の死をリアルなものとして考えることはできないだろう。次に、自分と関係ない第三者の死―これは学問的な対象として冷静に考えることはできるが、どうも、深く心からかかわっていくことはできない。そして、「わたし」でも「彼」でもない、「あなた」と呼べるほど親しい者の死―つまり、今度の場合のような二人称の死は、とてもリアルに感じられ、深く考えさせはするが、いっぽう、その者への感情が思考を乱してしまう・・・・・・。 (「生きる屍の死/山口雅也」p213、l1〜より抜粋)
以上が今読んでいる本の中で印象に残った部分らです。
―END―
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