人は基本的に生きていることを実感したがる動物のようです。 それは、いつか迎える<死>を無意識のうちに反映しているからでしょうか? 実は人は<死>をもってして初めて<生>を感じるのかもしれません。
ただ私には断言できることなど一つもありません。 またそういった断言が出来ないことも、<生>の不安定さによるものである気がします。
不安定さが<生>のもつ要素の一つであると仮定すれば、今度は反対に、安定というものが<死>のもつ要素であるのではないでしょうか? たとえば一個人が、<死>を迎えたならば、その人は永遠に<死んだ人>として安定することになります。 ただし、そういった考えも、物質的に捉えた場合でのみ有効なのです。 やはり、<死>をもってしても、安定などというものは現れないのかもしれません。
どこにも安定という名の、永遠の幸せの保証であるかのようなものがないのならば、私たちは生きることによってでしか、自身で<生>というものを感じられないのです。 安定は、<生>の中に溶け込んでいる幻想なのです。 私たちが生まれてきたことには残念ながら意味はありませんが、自由にそれを決めることもできますし、それにしたがって自由な考えや行動ができますし、そういったことらができる才能があるのです。 もし生まれてきたことに意味が一つあるとしたら、その時点で我々は大きな想像力を失うことになる気がします。 それは怖いことではないでしょうか? そう思うことも、一つの想像によるものです。
とにかく、この不安定さがいいと思いませんか? 想像力も、心も、概念も、色んなものが不確定です。 極論を言えば、何一つ決まったものがない。 だから、私たちは生きているのではないですか?
生きていることには理由はありません。 ただそれが、いいのだと思うのです。 あなたが生きていても死んでいても、それは生きていたことがあるから。 この世の長さから言えば、あなたは圧倒的に死んでいるのです。 もしくは死んでいたのです。 今のところ、だからこそ人の<生>には価値がある、と思います。 そう決めることも、私の一つの自由ですし、そういう自由に価値があるのです。 誰がそう言った? 私がそう言った。
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