| 2003年11月16日(日) |
私的の名言20、など |
「映画『ホテル・ビーナス』のCMよりの名言」 目指した訳でもなく たどり着いただけの街に 生きることも 死ぬことも 出来ない人達がいて そして・・・ ボクもまた その中のひとりだった
<生きることも 死ぬことも 出来ない>という部分に共感。
「評論家・宮崎哲弥の名言」 だが、森岡は明らかに意図的に、そうした洗練を拒否している。 思想に用意周到な叙述を求めること自体が無痛文明の詭計に嵌(はま)っている証左だといわんばかりに。 結果として、論考全体が奇妙な生動感と実存的緊張に満たされた。
これは、某新聞に載った、無痛文明論/森岡雅正への書評の一部を抜粋したものである。 つまり、表現というものは、洗練されていればいいというものではない、ということだろう。 確かに、その方がリアルだと思う。 世の中は混沌(カオス)としているかのように思える。 よって、あまりにも題材(宮崎によれば、命の営みに欠くべからざる『痛み』を除去しようとする文明の傾向を批判するもの、らしい)が題材なだけに、洗練された文章だと、反対に胡散臭いように感じるかもしれない。
「女性下着メーカー『トリンプ』の社長の名言」 成功するまでやれば成功する!
こういう当たり前のことを言っている名言は、好き。 そりゃそうですよね、という指摘がすぐ入るような名言ですね。 名言というのは、実践を積んでいる人が自分を振り返って言うものなので、自然とこういうシンプルなものになるのだと思います。 シンプルだが、実践するのが難しい。 そういったものが、名言らしい名言だと思います。
「某番組で」 何とかバンキシャ!という番組(分ってしまうがな!)で、ご意見番として出ていたねじめ正一でない方の人(毎週出ている気がする)が、ある企業(実はトリンプ)の紹介VTRを見て『会社のPRとしてこの番組を使われたという気がします』と言っていた。 野暮だろ、そんな意見。 そういうあなたは、この番組に何のために出ているのか? 何のためだろうが、それがあなたのPRになっていることを考えれば、そんな悪口的意見は言えないはずである。 その点、ねじめはその企業の評価すべき点を評価していたような気がする。
「映画という仮想空間」 冬にマトリックス、と聞くと、ハンドクリームを連想してしまいます。
ところで、映画『マトリックス』では、主には人間が仮想現実からの脱却をはかる物語ですが、そういうあんた(映画『マトリックス』)だって、我々観客を仮想空間(マトリックス、という名の)に引き込んでいるではないか!と指摘できる。 ただ、観客はソレを現実の世界の一部だとは捉えていない。 それどころか、こちらから望んで観に行っているくらいだ。
そもそも、人間は、仮想空間に飛び込みたいと思っている類の生き物ではないか? たとえば、ディズニーランドに行けくことは、一種のソレであると思われる。 ただ、ディズニーランドが人工的な空間であることは皆知っている。 しかし、僕は思う。 ビルに囲まれた都会で暮らすことだって、人工的な空間に身を置いているということである。 要は、仮想空間(人工的な空間)に身を置くことも、観ることも、現実なのである。
ただ、『マトリックス』に言わせれば、仮想現実に身を置くことは、人が夢を見ている状態のことをいう、と言う。 確かに、その状態では、現実の身を仮想空間に晒していることにはならない。 つまり、この身を、目やその他の器官で認識される空間に晒している状態を、現実に生きている、といい、反対に、簡単に言えば、夢をみている時のことを、仮想現実に生きている、というのだろう。
今現在、客観的に見れば、起きている時間の方が長く、そちらが暮らしの主体であるように思われている。 しかし、体の器官によって受ける現実と、頭の中でつくられる仮想現実に、違いがあるのだろうか? 確かに起きている時の方が、客観的にみても、自分を取り囲む空間から多くの刺激を受けるので、現実に生きている時の方が生きている実感がするのだと思う。 ただ将来、何らかの手段で、外部から脳に刺激を与えることにより、そうすることの方が現実で暮らしているよりも生きている実感がするようになったとしたらどうだろう?(システムとして脆弱である気はするが) つまり、今でいう仮想現実が現実になる、ということである。 全員、もしくはほぼ全員がそうすることが無理でも、一部の人がそういう暮しを営むことには可能性がある。 なんだかそちらの方がいいような気もする。 しかし、そうなってしまうのは嫌だと思う。 きっと、今のかたちに慣れていて、まだ飽きていないからなのだろう。
―END―
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