| 2003年11月14日(金) |
映画の感想、私的の名言19、他 |
今週のマンハッタン、始まりの10分を見逃して小ショック。 今週のマンハッタン、終わり頃の蒲生君の衝撃的告白を聞いて大ショック。
今日は一日で三日分のものを書きたいと思います。 なので、「キル・ビル」を見習ってvol.1、vol.2、vol.3をそれぞれ一日分として読んで下さい。 (※なぜ分けるのか? 一応同じ日に書いているけれど、分けた方が量の都合上いいだろうという判断からです。)
vol.1 「映画の感想」 そういえば11/4に観た映画の感想書くの忘れてた。 またまた500円で公開されていた映画を観た。 「ニュー・シネマ・パラダイス」。
村の映画館の映写室が世界の中心だった少年が、やがて青年になり村を出、大人になってからその村へ帰ってくるまでの話。(帰るといっても一瞬だが)
よく、この映画のラストに流れる、キス・シーンの羅列が素晴らしいと言われている。 僕も、いいアイディアだな、と思った。 何故、キス・シーンの羅列が流れるのか? 少年が村にいた頃、宗教上の理由からか、神父が映画のキス・シーンをカットしていたのだ。 そして、排除されていたそういうシーンだけが集まり、それを少年が宝物のように集めていたのだ。(一回それらが燃えてしまうという事件があったが) それを繋げたものを、大人になった彼は初めて見るのである。
少年だった頃、映写室に通っていた彼は、映写技師のおじいさんと仲が良かった。 村に戻ったのは、そのおじいさんが亡くなったからだ。
その少年は、名前をトトという。 トトはおじいさんに迷惑をかけながらも、頻繁に映写室に通った。 ある日、映写室が火事になり、おじいさんはトトに辛うじて助けられるも、顔にヤケドを負い、視力を失った。
僕がぞっとしたシーンがある。 青年になったトトは、好きな女の子ができた。 だが、彼は話しかけるのが面と向かってはし辛いと思っていた。 ある日トトが教会にいると、彼女も教会に来ていた。 教会には懺悔を行う箱(公衆電話のBOX程)があり、その中に神父が入っている。 その箱に彼女が並んでいたので、トトは神父に代わって自分が箱の中に入ろうとした。 トトは、とっさに、神父に言う。 「○○(おじいさんの名前)が重大な悩みがあるんだって。今すぐ聞いて欲しいて」 もちろんトトはおじいさんに、事前に事情を話した。 神父がBOXとは離れたところにいるおじいさんのところへおびき寄せられている間、トトはBOXに入り、やっと彼女に照れくさいことを言う。 その後、おじいさんが悩みを言い終わって、神父さんが悔い改めるように言って、おじいさんもそれを了解して、やっと神父さんはそこから開放される。 もちろんおじいさんはとっさに演技をしたわけなのだが、そのシーンの終盤、神父さんがBOXへ戻っていく時、妙におじいさんは心配そうな表情をしているのである。 本当は神父さんに言った悩みは、演技でなく本音だったのかもしれない。 歳になってから視力を失って、気が参っていたのかもしれない。 そう思うと、その一連のシーンが怖かった。
さて、幼少時代、青年時代をその村で過ごしたトトはそこを出、やがてすっかり大人になってからおじいさんの訃報を聞いて帰ってきたことはさっきも言った。 実はトトが村を出る決心をしたのは、おじいさんの強いススメなのだ。 自分は無学だが、お前には将来がある。絶対こんな村に収まるな。幼少の頃映写室を愛したように、好きな仕事を見つけ、それを愛せ。そして20年30年経つまでここへ戻るな。戻ったって何にもなりゃしない。寂しくなって戻ってきても、今の村の姿は変わる。今までの村でのことは、すべて幻なんだ。 と、そんなようなことを厳しい口調でおじいさんはトトに言った。 そう言われ、彼は汽車に乗り、プラットホームにいるおじいさん、母、妹を残してそこを去った。 そして月日が流れ、彼は大人になり、おじいさんが死んで、戻った。
村の人たちは、トトが村にいた頃は彼をトトと呼んでいた。 が、帰ってくると、皆は彼を○○(名字)さん、と敬語で呼ぶ。 何で敬語で呼ぶんですか?と立派な大人になったトト(どうやら世間的地位も高いらしい)が言うと、村人の一人が言う。 「昔はトトと呼んでいたが、もう君は立派な大人だ。でも敢えて言おう、おかえりトト」 それを聞いて、僕は泣いてしまった。 そもそも、終盤彼がその村に帰ってくるシークエンスの始まりから、僕は何故だかジーンときていた。
そして、ラストのキスシーンの羅列である。 それ以上のラストシーンはないだろう、と思った。
vol.2 「朽ちる散る落ちる/森博嗣よりの名言」 これは、知らない谷だ。 それが、目の前に見えた。 まったく新しい橋を、そこに架ける必要がある。
もちろん、それまでには橋が架っていないものとする。(私談)
「捩れ屋敷の利鈍/森博嗣よりの名言」 それじゃあ、そうですね、シマウマの縞が、黒字に白か、白地に白か、みたいな無駄な会話をしましょうか?
本当にどっちでもいいことだし、くだらない。 くだらないことの例えに相応しい。
「捩れ屋敷の利鈍/森博嗣の引用文よりの名言」 そして、何一ついい前触れをもってこない○○(牙に鳥と書く漢字)さえほほえましいほど、すべてが新鮮な光の中に浸る。
それも一瞬のことだろう。
「六人の超音波科学者/森博嗣の引用文よりの名言」 ・・・無生物から生物はできないことになる。
生物の定義にもよるが、とにかく初めての生物とは何だったのだろう? そもそも、猿と人間の違いだって、曖昧なのではないか? ほぼ、文明の度合が違うだけ。(それが大きな差とも言えるが) 外見は似ている。 互いの境界線は、非常に曖昧だとも言える。(あくまでも他の生物よりは、ということだが) それと同じで、生物とそうでないものの境界線も曖昧なのだろうか? 専門でないので知らない。 まぁ、人間が人間なりに考え出した生物の定義があるとして、それに基づく生物というものの一番始まりもきっとあるのだろう。 でも、それは上の名言と矛盾する。 所詮、人間の認知できる現象には限りがあるのだろう。
「六人の超音波科学者/森博嗣の引用文よりの名言」 本質的にいったら、量の大小で生命現象の本質は論ぜられない。 スミス氏のからだをつくっている細胞の何割まで死んだ時に、スミス氏が死んだことにするというのはおかしい。 けっきょくスミス氏が死ぬということは、スミス氏という一人の個人をつくっている体型、モルフェという言葉でいっているが、このモルフェが死ぬことであって、細胞が死ぬこととは別なのである。
ここまで科学的に<死>について語られると、滑稽に思える。
vol.3 「阿修羅のごとく」 上のタイトル通りの映画が既に公開されている。 たぶん観る。
四姉妹が並んでいるポスターを見た。 上から大竹しのぶ、黒木瞳、深津絵里、深田恭子。 容姿がバラバラ、とも言える。 が、それは、ひょっとして、同じ家族であり姉妹であるという枠組みを越えた四人のチームを描きたかった監督が、狙いで容姿をバラバラにし、それを記号化させたことによるものではないか?という深読みができる。
それにしても、出演者の誰かが言っていた。 この物語は時代劇だ、と。 確かに明治時代を描いている、つまり現代ではないから、時代劇だと言える。 どれくらい古ければ時代劇と言えるのか? 80年代を描いても、時代劇と言えるのか?
―END―
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