今年の春、有名人が(二人とも俳優)自殺を遂げたというニュースがマスコミに取り上げられた(必ず取り上げられるだろう)。 所謂コメンテーターは(お気の毒ですね)と言わんばかりの面持ちでテレビに映っているが、1人くらいそうでない人がいても可笑しくないハズなのに、そうでないのが現実のようである。
「TV Bros.」という雑誌でミュージシャン忌野清志郎は言う。 「(前略)レンタンで自殺するインターネット仲間、春先の芸能人の自殺、とても不愉快だ。死にたい奴はイラクに行ってイラク兵になれよ。すぐ死ねるぜ。自殺したい奴はアラブに行け。アフガンだっていいよ。すぐに死ねるぜ。」 上のコメントは彼がイラク戦争反対への意志を語った流れで述べられたもので、そこでは我が国のワイドショーに顔を出す軍事評論家、また総理大臣、政治家に対しての意見が語られている。
こういう本音を聞けるのは今ではなぜか新鮮なことのように思える。 僕はこれこそ本音だと思った。 本音だからといって、無責任な発言ではない。 インターネット上にのさばっているような、得体のしれない意見ではない。(もはやあれらは公害である、と僕は思う。)
さっきも某ワイドショーでさっきも言った芸能人の自殺について、「自分なりの老いに対する美学があったんでしょうね。かわいそうですね。」とさもそれがもっともであるというようなニュアンスで語っていた。 本当にかわいそうだと思っていたのだろうか?
自殺者は被害者扱いされるのが当たり前であるが、僕はむしろ彼らは加害者であると思う。 本人らは「自殺は自由意志だ」と思っているだろう。
忌野が言ったようなことに対して、こう思う人もいるだろう。 「お前に文句を言われる筋合いはない」、と。 自殺しようと思っている人にしかわからない思い、考えがあるのだ、と。
追いつめられている人がそう思うってしまうのは自然なことなのかもしれない。 ただ、僕が今思うのは、自殺するのは勝手だが、個人の自由意志はこの世の中で通用しない、ということである。 人は集団の中で、生きているのである。 僕もその集団の一員だ。 これを意識していないといけない、と思う。
ルールの上に、自由は存在する。 ルールの上に、集団は成り立つ。 自殺という選択が簡単に許されるルールでは(とは言っても簡単に人は自殺をしないが)、そのゲーム自体がピリオドを迎えてしまう。 もちろん本人は死んでしまうのだから自分自身が自殺後、苦しむことはない。 ただし、そういう人達に対して「かわいそう」と思うのが当たり前だ、という表情を持ったワイドショーが、異様な存在に思えてならない。 報道の自由なんてあったもんじゃない。
自由を装ったメディア、マスコミは自由という名の宗教団体なのかもしれない。 現実の自由とは映画「イージー・ライダー」の主人公が迎える末路のように残酷なのである。 逆説的に言えば、現実の自由こそ不自由である。(ちゃんと逆説になっているのかが心配)
僕は自由という名のゲームを終わらせたくはない。(ここで言う<ゲーム>とは、この世の中のことであり、簡単にリセットできるようなものの事ではない) 僕がそう思う限り、この世の中は存在するだろう。 そして<して欲しい>と思う。
個人の自由は、集団を逸脱しては有り得ない。 たとえ親が既に他界しており、独身の身である人は自殺したとしても、その一現象は世の中に(迷惑をかけるとまでは言わないだろうが)波紋を投げかけるだろう。 自殺は一つの逸脱と言える。 そう言えるからどう、という問題でもない。 が、今の世の中には、そんな小さな波紋が絶えず広がっているような印象があるように思えてならない。 そんな世の中には住みたくない、と少なくとも思う。 (END)
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