今日、一年近くぶりにあの子と話した。 前は岡山に異動になる直前だったと思う。
今日、久しぶりに話して、改めて彼女とは環境が違ってしまった事を気付かされた。やはり環境が違えば考え方もズレてくる。そういう趣旨のことを伝えたかったけれど、上手く伝えられなかったのがもどかしかった。ただ、その気付きは僕の気持ちに区切りのようなものを生んだ気がする。
元カノの結婚を知らされてなかったことであったり、仕事で彼の一周忌に墓参りに行けなかったことであったり。自分の間の悪さと、人と人が分かり合えないことへの諦念とか、そういうのを抱えてぐちゃぐちゃになっていたタイミングだったけれど、それが今は落ち着いている。静かな諦念へと落ち着いている。そう思う。
ここ数日で「他人の気持ちを考慮しなければすごく楽だ」という事に気付いてしまった。そして、今日の話の中で「他人のために何かをやっても、自分には何も残らない」ということに気付いた。
今回の帰阪は、それでも人と人が分かり合える可能性を信じていた僕が、努力した結果を確認する旅になったと思う。成長して、意識しないくらい当たり前のように幸せになっている彼女と、当たり前のように存続し続ける店と、当たり前のように懐かしみ頼りにしてくれる元同僚と。
なんというか、僕がいなくてもみんなちゃんと続いていることが確認できて、僕の努力は無駄ではなかったと思えた。
あとは彼女が結婚できれば、心残りは何もなくなるに違いない。
そんなことをぼんやりと思っている。 激しい嫉妬や自己嫌悪は今のところあまりない。穏やかだ。 執着がなくなったのだろうと思う。
過去に執着することで自分を支えてきた。 でも、過去への執着ではこれ以上は延命が行き詰っていることに気付いたのだ。前にも進めず後ろにも戻れず、タイムリミットだけが近づいてくる感覚、その危機感。そのどん詰まりに怯えていたのだけれど、他人に対する執着を捨てれば楽になるということに気付いてしまったのだ。
普通の人たちはたぶん、そもそもそこまで他人に執着することはないのだろう。だから、ストーカー行為は異常だと見なされる。だから、自分も同じように表層的に付き合えばいいじゃないかと。
それが大人になるということだろうか。 そういう大人ばかりだから世の中が優しくならないのだと考えてきたのだろう。他人を考慮しない自分勝手なことに無意識な人間になりたくない、と。
いま、僕が向かおうとしている道は、分かり合うことを諦めて、ただ機械を通じて自分と戦い続けるだけの道なのかもしれない。理解されないなら、理解されることすら拒否する、そういう世界に閉じこもろうとしているのだろうか。
|