と一か月を超えました。笑。
自分が子供の頃は、50歳ってもっとお爺さんだった気がする。自分がそこにいるのは驚きでしかないが、年相応の変化もあるのだろうなと思う。
数か月前ではあるが、ある暑い日、大阪府南部のある市にバイトに行った。ただ暑かった。午前中で仕事を終え、帰路に就いた。
暑いとは言っても大阪南部の暑さは京都のそれとは少し違う。暑さはマイルドで風が吹くと涼しく、全然過ごしやすいやんけ、とてめえは思った。
仕事を終えて外に出た。暑さが全身を包む。しばらく身を焼かれながら歩くうちに、喉のあたりに今まで感じたことのない違和感を感じた。
あれ、熱中症かな、というのが第一感だった。急いで移動し、日陰に入った。違和感はまだ続いていた。そもそも熱中症になるほどの暑さでもなく、水分補給は普通にしていた。日陰に入った後も違和感は続いていた。
冷房の効いた電車で移動する。違和感は続いていた。この日は引き続き、大阪市内にあるネパール料理屋で食事をして帰宅するつもりだった。じっと座って移動していると、違和感はいつの間にか消失していた。
目的の駅に着いた。電車を降り、外に出る。さっきとは違う高熱がたちまち身を焼いた。そして再び先ほどの違和感が身を包んだ。
自分は一瞬逡巡した。やっぱ熱中症か? 食事せずにこのまま帰宅した方が良いか? と考えたがそれ以上に空腹が勝り、仕事を終えた後ということもありそのまま予定していたネパール料理屋に向かった。
店に着くころには違和感は頂点に達していた。絞扼感とも言っていいほどの違和感が身を襲った。料理を注文しながら、これ以上ひどくなれば救急受診もありかな、と思った。
ところが不思議なことに、到着した料理を食べると違和感は不思議なくらいに消失した。腹減ってただけすか?
だといいんだけど。
先日、農作業中に喉の違和感があった、という訴えの方を診た。心電図を撮ったら明らかにおかしく、そのまま病院の救急外来に紹介したら即入院となった。心臓のカテーテル検査では冠動脈に99%狭窄があり、即治療となった。彼はもうすぐで死ぬところだった。
というわけで、自分も循環器内科受診しようと思う。
先月末で奨学金を完済した。大学を卒業して半年の猶予、そして20年の返済。その日が先月末に来た。まだ実感がなく、今月もいつも通り返済の口座に入金した。当たり前だが引き落としはまだない。そして自分の間違いでなければ、その引き落としはないはずだ。
進学校に行っていない、塾や予備校に通っていない。そういう事実は「めっちゃ頭が良かったんだね」で済まされてきた。「いや、めっちゃ貧乏やってん」と言うても「いやいや」と済まされる。
最近便利な言葉を覚えた。「うちな、シングルマザーで5人兄弟やってん」
めっちゃ便利な言葉だ。そりゃあ塾には行けないわな。ていうかよく高校に行ったなレベル。大学の進学費用はどう工面したのか小一時間問い質したいレベル。
事実、行けた高校は自宅近くの公立で、当然のように学費免除だった。私学はどうなのか知らないが、公立学校の学費免除は成績がいいからではなく、貧乏人救済のためのシステムなので、世帯収入が基準を下回ればただになる。それでも全額免除はハードルが高かった。もちろん「シングルマザーで5人兄弟」なら余裕で突破する。
そんな高校の授業は退屈すぎた。文句の言える立場ではないのだが、生まれた家に関わらず適切な教育を受けられる世の中になってほしいと心から思う。
学校教育に絶望した自分は、一刻も早く学校生活を卒業し、自立して生きていくことを目指した。中2から中3になろうかと言うときに生まれた、父知らずの妹の存在もそれを後押しした。仕事で家にいない母。今ならヤングケアラーという言葉があるが、当時はそうではなかった。
無駄としか思えない学校生活、生きていくためのアルバイト、そして妹の世話。「クラブ活動? なにそれおいしいの?」状態で、部活に勤しむ高校生活なんてなかった。授業が終わると妹のお迎えに保育園に行き、あと二人いる妹も含めてご飯を食べさせて下の妹をお風呂に入れ、絵本を読んで寝かせる。長期休暇は学校に行く時間の代わりに工場などでアルバイトした。自分の高校生活は、バイトと妹の世話だけだった。
「自立したい」その思いだけだった。高校を卒業し、ようやく学校に行かなくてもよくなったと思ったが、当時週休二日制度のない工場でぼろ布のように働き「もしかして学がないからこんな目にあっているのか?」と悟りを啓いた。
当時の公立高校の授業料は、年10万もなかったと記憶している。たしか3−6万くらいか。それが国立大学に入ると、いきなり10倍以上に跳ね上がった。大学に合格したときは、喜び以上に学費の恐怖に慄いた。ようやく安堵したのは、「全額免除」の決定を頂いた時だった。
借りれるだけの奨学金も頂き、いろんな方に援助していただいて大学を卒業した。自分的にはこれ以上の奇跡はないんじゃないかと思った。国家試験に合格したときは、合格を知らせてくれたパソコンモニターの前で号泣した。生きててよかった、と思った。
最近奨学金に関する記事を目にする。まるで奨学金が悪のような扱いを受けているのも見るが、自分にとってはこれ以上ないレバレッジだった。
じゃあさっさと返せや、という議論もあるだろうが、「貧困は再生産する」のです。そこからの脱却が自分の人生のテーマだったが、たまたま家族の中に成功者がいたとして、他の人はそうとは限らないのです。
「シングルマザーで5人兄弟」。3番目はアル中で、もうすぐ死ぬだろう。残念だがアル中が救われないのは職業柄山盛り診てきた。彼らは死ぬことで解放される一面もあると思っている。
5番目は20年以上弟だったが、数年前に妹に変貌した。めっちゃ生きづらいのだろうが、彼女なりに生きている。
愛する娘はかわいい孫を二人産んだが、夫のDVで孫ともども殺されかけた。実の親にも連絡先を教えてはならないDVシェルターを経て、理不尽な離婚裁判も戦いようやく解放された。ただあまりに若く母になった娘にできる仕事はあまりなく、ようやく仕事を見つけても、予測しない熱を出す孫がいて仕事は続かない。その辺の理解に乏しい世の中と、DVした上に養育費放棄をしても許されるこの社会はどうなんだろうと思う。
そんなわけで、自分が稼いでも消えていく収入。資金繰りをしながら、中小企業の社長はこんな感じなんだろうなと思う。普段の仕事に加えてこっそりバイトする日々。そして細々と奨学金は返済してきた。
それも完済した。まだまだ人生は続くが、一つの区切りになったのだろうと思う。
に行ってきました。
この日は朝からバイト。交通費を浮かすために堺までバイクで移動。当然下道なので2時間くらいの移動。
翌日松阪でバイトなので、そのままバイクで移動。奈良県を横断する旅で、それはそれなりに面白かった、疲れたけど。
で、途中にあるわけですよ。バイクじゃないと正直行けない(当方、車の免許はございません)。
結論から言うと非常に良かった。行った時間が遅かったので、途中までしか歩けなかったが、行ってよかった。いつの日か、朝一番に行ってすべての滝を見てみたいと思う。
滝を出て松阪に向かう。ひたすら山道を走っていたら、突然学校があった。通行人すらいない山中にポツンと学校。心当たりがあったのであとで調べてみたら、やっぱりそうだった。浜ちゃんが卒業した学校。
それから宿に着き、寝て起きて仕事をしてバイクに乗って帰宅した。ていうと簡単だがめっちゃ大変だったが面白かったぜ。面白がらないと生きていけないよな。
2024年10月05日(土) |
バングラディシュ人の中にぽつんと一人 |
とある日、バイクで何気なく八幡市内の国道1号線を走っていると、突如として「インド・バングラディッシュ料理」を看板に掲げるレストランに出会い驚愕した。八幡市民には申し訳ないが、こんな田舎にバングラディッシュ料理?
こういう店は、「インド・ネパール料理」いわゆるインネパ料理屋を例に上げるまでもなく、商売のために「インド」を掲げているだけであり、その本質はバングラディッシュ料理にあるのは間違いない。そんなわけで、その日はただ驚愕して通り過ぎただけであったが、あらためてこの日に再度伺うこととした。
さて店に入る。中をぐるりを見渡すと、どうやらムスリム向けに祈りを捧げる部屋もあるようだ。これはヒンドゥー教が主であるインドではありえなく、イスラム教を主とするバングラディッシュ色が濃いようだ。とにかく期待が高まる。
適当な席に案内されて座ったが、どうやら自分以外の客は日本人には見えない。店の方も日本人には見えない。というかどう考えてもバングラディッシュ人だろう。当然のようにイスラム教では禁忌であるアルコールは置いていない。2日連続でぽつんと一人。いやいいんだけど。
さてこの店に来る前に、注文する料理はすでに2択に決めていた。「マトンニハリ」と「ハリーム」である。どちらも食べたことはない。散々悩んだ末に「マトンニハリ」を注文した。この店は京都市内に本店があり、そちらにはセットとして色々組み合わせたメニューがあるらしいが、こちらの八幡店は単品のみである。店員に聞くと「マトンニハリにはナンが合う」とのことで、プレーンなナンを注文した。ナンしか注文できない店以外でナンを注文したのは初めてじゃないだろうか。ちなみに後ほど調べてみたら、マトンニハリは結構なご馳走らしく、普通はナンと一緒に食べるらしい。どちらも普通は家では作らないとのこと。
さてそのマトンニハリだが、ホンマにマトンのマンガ肉が出てきた。これをこの店は常備しているということが単純にすごいと思う。で、美味しくいただきました。次はハリームかな。
2024年10月04日(金) |
ネパール人の中にポツンと一人 |
この日は和歌山方面で仕事。まあいろいろあったがそれはどうでもよい。
帰りに大阪の某所で夕食を摂った。またいずれ書こうと思っているが、とあるきっかけでネパール料理にドはまりしてしまい、可能であればネパール料理屋で食事をする機会が増えた。
というわけで、この日も前から狙っていた店へ。店に着くと同時に、中からネパール人と思しき団体客がどっと吐き出されてきた。以前なら気が引けたかもしれないが最近は全く気にならなくなってきた。入れ替わるように店に入る。
中ではネパール人の団体がどんちゃん騒ぎしていた。別のテーブルで食事している親子も日本人には見えない。ていうかどこからも日本語が聞こえてこない。ネパール人の中にポツンと一人。
ネパール人と思われる、褐色の肌をして両腕に刺青の入ったお兄ちゃんがにっこりと微笑みかけてきた。きっと店員なのだろうが、今闖入してきた客が日本人なのかネパール人なのか迷っているのだろうか。どこから見ても日本人にしか見えないと自分では思っているのだが、ベトナムではベトナム人にベトナム語で道を尋ねられ、中国へ向かう飛行機の中ではほぼ日本人しかいないのにCAに中国語で話しかけられた経験がある。てめえの顔面はどうも無国籍らしい。
そんなことはどうでもよい。普通に日本語で注文させていただいた。つづく
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