ちいはんの衣装室。
心の奥に眠るホントの気持ち

2025年03月11日(火) 14年

東日本大震災から14年ですね。

阪神大震災の時は子供だったから、
子供目線の記憶しか残ってないけど
(前日の夕日がやけに赤かったとか、ギリギリ登校になったとか)
14年前はもう大人だったから、
結構しっかり色々覚えてる。

(あくまでも備忘録です。
大変な思いをした方からしたら逆に不愉快になったらごめんなさい)

地震が起きた時、仕事中だった。
新しいポスターを貼る為に脚立にあがってた。
最初小さな揺れを感じた。
「地震?」という人がいたので
「ここは強いから大丈夫ですよー」って言いながら脚立を降りた。
止まらない揺れ。だんだん激しくなる。
え?って思いながら側にあったラックを支えたら
一気に激しい揺れ。
崩れた天井の一部が真後ろに落ちてきて悲鳴を上げた。
収まったら明かりが消えた。
隣のお店のスプリンクラーが壊れたようで通路は水浸し。
何が起きたかわからなかった。
当時の上司がレジ金をまとめるのをみて
(私は冷静になれてなかった)と思った。
非常階段からなんてマニュアルは吹っ飛んだ。
みんな止まったエスカレーターを駆け降りた。
外に出たら、某店のスタッフが迷子の親を探して駆け回ってた。
親に電話した(繋がった)
電話に出たら呑気な話しだす母。
「待って!地震!でかいの!どうなってる?!」と聞くと
テレビをつけたらしい親が
「東北で津波が」と言い出した。
意味がわからないまま、とりあえず諸々済ませて退館。
夫が駆け寄ってきた。「大丈夫?」と。
ちょっと話して夫は仕事に戻って行った。
私は帰宅しようとしたら大渋滞。
帰りに念のためコンビニ寄ったらなんもなかった。
ガソリンもギリギリ(翌日並んだ)
その後は交通止まったから上司の足になったり
片付けしてから休業になったから、
リビングに布団を敷いて過ごした。
怖いけどテレビから目を離せなかった。
賃貸だったから、水タンクがあったのと
同じ市内でも停電にならなかったエリアだったから
ある程度大丈夫だった。
1回だけ給水所に並んだけど、バナナを配られて
言い方おかしいけど不思議な気持ちになった。
(多分テレビと自分の状況がリンクしてなかった)

その後も色々あったけど
とりあえず数ヶ月後には普通の生活してた。

でも翌年、
宮城に旅した時、松島の観光地は比較的回れる感じだったけど
別の目的地をきめ北上しようとしたら、
何もない海岸線。
ナビが「次の信号右方向です」という。
目印のはずの信号も、コンビニも、民宿も
何もない。
地図上に記されているものが、何もない。
そこにあったであろう「生活」が何もない。
怖くなった。
夫婦で黙った後
「…またいつか来ようか」と引き返した。
現実はテレビからじゃ何もわかってなかった。
私らの被災なんて、被災と呼べるものじゃなかった。
それを現実に経験した方はどれほど辛かった事だろうと。

あれから月日は経ち
何度も東北旅行に行った。
福島なんて下手したら月1で行く(好きすぎて)
そして13年が経った去年
あの時いなかった子供を連れて、
某所震災遺構に行った。
私が阪神大震災を経験したのと同じ歳になった子供。
津波の威力を目の当たりにするそこは
経験のない子供にも思うところはあったらしく、
3月11日というと「津波があった日」という。
必要以上に怖がらせたい訳じゃないけど、
知っておくというのはとても大切なことだと思う。

その後も各地で大きな地震はあったし
メディアに取り上げられてないから詳しくはわからないけど
きっと今も大変な思いの中、日々過ごしている人はいると思う。

将来的にもいろんな可能性が噂されている今
改めて色々思い、
そして備えをしていかなければならないなと思う
14回目の春でした。


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