9で完結した異世界ファンタジー・シリーズ。九巻目を手にとってあれこれ見ているうちに読みたくなった。児童文学だが、面白かった。九冊目まで読み続けられそうな美質を持っている。
佐伯泰英シリーズ作品中、最も気になっていたのは『古着屋』ものだった。作品の格も主人公の格も他を圧していたのに一番先に終わってしまって残念だった。その後生まれた新たな主人公たちの物語の中で続編が期待通りに進んでいないのが一つある。『古着屋』同様、破天荒だからだろうか。もちろんのんべな小柄な爺さま侍もいい。しかし、何をしでかすかわからない大柄な無法な奴の新作が今一番待ち遠しい。磐音の物語が早すぎる。磐音はもう少し後からでもいい。 いつのまにか時代小説が文庫の大波となって世間の人々の頭を飛び越えんばかりに押し寄せている。知らないうちに好評シリーズものがたくさん生み出されていた。佐伯泰英ばかり読んでいては駄目と言われているような感じ、雰囲気。 そこでいくつかのシリーズを読んで、今は『闇を斬る』シリーズの第一弾「直心影流龍尾の舞い」を読んでいる。磐音と同流派の鷹森真九郎の物語。文化六年(1809年)から始まる。真九郎二十七歳の時という冒頭の紹介。百四十頁まで読んだ。ここまでで何度も真九郎は刃を交えている。イメージでは四、五回襲撃者と戦っている。次は同藩の者との遺恨がらみの戦いに赴くらしい。この辺で真九郎は「疑念」を抱いたと作者は書く。これ以前にも「疑念」という言葉は出ている。これは全く別の物語が裏に潜んでいるという作者の指さしででもあるのだろうか。殺陣場面が多い割りには淡々とした印象がついて離れないのは物語に何か仕掛けがあるからだろうか。あれこれと考えさせられる時代小説である。佐伯泰英の時代小説第一作とされる『密命』は単純で読みやすかった。そして「感動」があった。さらにこうも言える。佐伯泰英のどの時代小説にも必ず一カ所は「感動」を味わう場面がある、と。『闇を斬る』はどうだろうか、という楽しみがある。
しめきりがないと本が読めない。だから図書館から借り受けて読む。書店で買って自分のものにすると本が読めない。いつでも読める、いつか読む、そのうち読もう、と途端に読めなくなってしまう。 そういうわけで、ダン・シモンズの『オリュンポス』(早川書房)をまだ読んでいないのだ。図書館に借りに行くしかないか。 そういうわけで最近はあまり本を読んでいない。
このアゴタ・クリストフの自伝または自伝的小品集を読むと自堕落な自らを振り返ることとなる。他人の死、子どもの死、家族の死、自分の死の「死」に直面し、非業の「死体」とも対面したことのある者の無表情を装った風の文章は惚けた頭を遠ざけようとする。想像力のない者は去れ。現実に臨めぬ者はよそへ。そんなメッセージを勝手に受け取って先へ進めぬ読者が何人かはいるのではないだろうか。娯楽性の原点がここにある。読めなくなることも楽しみの一つ。自らを三省するのも喜びのひとつ。アゴタ・クリストフの作品はまれに見る娯楽作品である。
『文盲』を持って戦場に行くかどうか迷っている兵士がいた。彼はその国の七十年ぶりの徴兵制の第一期兵だったが、実はほんの少し前までフランス文学の研究者で、アゴタ・クリストフの愛読者でもあった。迷う時間がまだ五分間ある。五分後に兵士寮を出なければならなかった。彼はぎりぎりまで迷いたいと思った。が、結局のところ、彼は決断できなかった。どこかの基地で誤射したミサイルが『文盲』に引き寄せられるように彼のいる寮に飛び込み大爆発したからだ。
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