「生きていくのに大切なこと」こころの日記
DiaryINDEX|past|will
2017年08月31日(木) |
心のファシリテイターとして育つ会 2017年8月号 |
心のファシリテイターとして育つ会8月号
こんにちは。心のファシリテイターとして育つ会のMamoです。いかがお過ごしですか?私は先月末から10日間ほど日本に帰っていましたが、お天気は短期滞在の私の味方をしてくれたようで、本来の蒸し暑い日本の夏は何処へやら。ただただラッキーでした^^
そんな中、今回もまた、人々、特に自分に最も近い我が子や親姉弟との関わりを通して今の自分とこれからも育っていく自分に頼もしさを感じるのです。人との関わりはいつも私たちを一つ上の段階に成長させてくれますね。例えば、こんなことがあったのです。
今回の旅で、私は友人宅に3日間、家族たちの家にそれぞれ数泊ずつ滞在させてもらったのです。省略していますが、ワクワクの中で時を過ごしたことは紛れもありません^^。滞在させてくれたみなさん、ありがとう。そして、その中で私は何を考えたでしょうか?
友人のお宅にて。私は初日から二日目にかけては招待してくださった友人とそのご家族に受け入れられるよう、相手を敬う言葉をたくさん使い自分の行動を彼らに合わせようとする私でした。そして後半に差し掛かる頃、私は私でいればいいと悟るのです。私は私でいればいいというのは、相手に構わず自分の好きにしていいということではなく、いつも自分と相談して自分のしたいこと自分で出来ることを自分でするという基本姿勢を持っている、ということ。相手の好意に素直に甘える場面や丁寧にお断りする場面を、自分の気持ちに沿い裏付けと責任を持ってそうしているということです。
その後私は、娘の家に一泊滞在しました。娘はその友人よりも私に近い存在ですから、楽といえば楽ですが、逆に境界線を超えてしまいやすいですね。そこで私の意識したことはやはり、自分をするということです。娘相手なのに堅苦しいと思いますか?しかし、自分がそこにいる理由と自分なりの計画をクリアにしておくことは、自分に最も近い娘と自分との境界線を良い距離で保つのに有効だと、私は思うのです。それは、自分は娘(または息子/夫/親)と時間を共有する時にも自分自身を主体にしているという意識に繋がります。私たちはよく、何か決めるときの理由として「誰それがなになにだから」とか「誰それのために」と言いがちだけれど、その表現は特に、子どもに対して使ってはいけないと私は思っています。
さらにその後、私は姉の家に2泊滞在しました。姉もまた、娘と同じように私に近い存在です。幼少期を共に過ごしたという意味では、時には娘よりも近い存在に成り得えますが、ここで最初の二つの滞在時と違ったのは、私は娘と一緒に泊まっていたということです。娘と姉の関係は、私とそれぞれ娘や姉とほどの心理的な近さはありませんから、私は彼女たちの真ん中で二人をつなぐ役割もしていたとも思っています。
一般的に三角関係という言葉がありますが、三人の集まりというのは時々ややこしくなると思いませんか?三人の中の誰か一人が気を使い始めるとその関係がギクシャクしたものになりがちでしょう?そのギクシャクを避けるために、周囲に敏感な人ほどより気を使って揉め事が起こらないようにするものでは?ともすれば、三人が三人とも気を使って疲れることになりかねないですよね。疲れはトラウマになることがあり、そうすると「もう○○には行きたくない/会いたくない/○○したくない」いう否定の気持ちがが現れるでしょう。
そこで私のしたことは。。。ここでも、自分をする、ということでした。自分の大切にしていること、優先順位は何かをいつでも思い出せる自分をする。それはもちろん、相手構わず自分の優先順位でしたいことをすればいいということではなく、自分の行動に裏付けがあり、仮に問題が発生した時にはそれに対処できる自分を作っておくということなのでした。
と、こうして書いてみると堅苦しいですが、みなさんに協力してもらって楽しく時を過ごせた事は間違いなしですよ。
話は少し変わりますが、今回の旅で私は、20年以上も前の親になりたての頃に、あることでとても悩んでいた自分にも気づいたのです。当時の私にとってそれはとても大きな問題でした。しかし自分がそのことで悩んでいるということに気づけずに、何か変だとうすうす感じていたけれど、それが何かを言葉にするには程遠い精神状態でした。まるで、この問題は私と元夫の結婚生活がうまくいかない原因のひとつとなっていたと半ば確信することすらできるほどの、とっても大きな気づきだったのですよ。
さて、人がこんなことに気づいたら、まず出てくるのが後悔ですよねぇ。気づいた瞬間、あの時気付けていれば離婚せずに済んだし子ども達に悲しい思いもさせなくても済んだかもしれないのにと、本当に心の底から悔やまれました。しかし、後悔しても何の役にも立ちませんからねぇ。今気づけたのはそれなりの成長あってのことなんですから、素晴らしいことではないですか!
ここでこの切り替えを手伝ってくれたのが離婚という選択肢で新しいものを築こうとした当時の私の<裏付け>です。裏付けとは、単に統計として出された科学的なデータや過去の経験のみではないのです。自分は今(当時)よりも成長して良い大人になるんだ、親として人として成長するために今ここで人生を変えるんだ、という確固たる裏付けを元に新しい一歩をふみだした自分への裏付け。自分の中にある確たる思いやそれに対する満足感を裏付けに行動した自分は、それがたとえ間違いであったとしても自分を責めるに値しません。(裏付けがあれば子ども達にマイナスの影響がない、ということではありません)裏付けを持つことは世の中の動きや他者の言葉に左右されない自分になり、私たちを芯のある大人に育てるのです。
裏付けを持って行動できる大人への要素は本来、幼少期に育てられます。 エリックエリクソンは、人はそれぞれの発達段階の中でさまざまな心理的社会的危機を乗り越えてその人の内面的な強さや自我が育ってくると言っています。[1] ここでいう危機とは、必ずしも破壊的な出来事ではありません。それはそれぞれの発達段階に沿って与えられる課題で、例えばヨチヨチ歩きの赤ちゃんが自分の足で一つずつ階段を登るその困難を乗り越えていくことです。誰も皆、自分なりの危機/サバイバル状態を持つことができるでしょう。この場合、英語ではSurvival(危機)よりも、Gumption(積極性)の方が似合っているかなー。
以上、育つ会より2017年8月号のニュースレターでした。みなさんは毎日何を考えて/感じてお過ごしですか?ご意見ご感想など、お寄せくださいませ^^
Facebookへの投稿は以下(内容は同じですが、写真を一枚見ることができます^^)
Mamo
#kokoro #selfesteem #innerself #心育て #自分育て #インナーチャイイルド #育児 #育自 #心を語ろう #愛のある人生 #親として #子どもを持ったら考えること #親になるために考えること #楽しい人生 #毎日がハッピー #生きてる感覚
2017年08月15日(火) |
感情豊かになるために |
今朝、瞑想のあとで、私はどのようにしてありのままの自分を封印させられたのだろうという疑問が浮かんできました。
私の古い記憶の多くの場面で当時の大人たちは大きな声を上げ、手を振りかざし大げさなジェスチャーで事の重大さを訴え、その手は時に他者の方へ向かいました。
自然の中で時を過ごしていたり、自然の生き物を観察する機会が多い環境にいるとよくわかると思うのですが、自然は基本的に、私たちの目では気づかないくらいに緩やかな速度で変化しています。岩を丸く削ることができる川の水流さえ長い時間をかけてそうするのであるように、私たちは緩やかに変化するように生まれているのです。つまり、私たちは急な変化や激しい物音が苦手なのです。
赤ちゃんや子どもの時代は特に、できるだけ自然に触れて、その緩やかな変化の中で成長することが大切です。しかし、その大切な時期に、激しい声や物音や極端な環境の変化で身の安全を脅かされることが繰り返されると、彼らは自分を怖がらせる激動を感じないでいられるように、感覚を鈍麻にするのです。人は感じる心を持って生まれているので、感覚をなくした私たちは、私たち自身ではありません。
こんなことを考えて、私の過去には本当にひどい時代があったな、と思いました。でも大丈夫。気づきは素晴らしいです。変えていけるはじめの一歩。ここで自分を否定しさせえしなければ何も怖いことはないんです。とうことで、今朝も嬉しい気づき。トラウマや傷ついた経験を一つも持っていない人はいませんが、心のトラウマは癒やされる必要があります。トラウマを癒やす方法は今やネットを検索すれば間もなく見つけることができます。自分にあった方法を選んでトラウマを癒やし、感情豊かな毎日を過ごしましょう。
2017年07月31日(月) |
心のファシリテイターとして育つ会 2017年7月号 |
心のファシリテイターとして育つ会7月号
みなさんこんにちは。心のファシリテイターとして育つ会のMamoです。いかがお過ごしですか? いつものように毎日の暮らしの中におもしろいことを発見しつつ暮らしている私。今月は二つの話題を書きます。
<失敗を恐れる時の自分> 何か新しいことをする時に失敗したらどうしようと思うことはありませんか?もしあなたが今頷いているのなら、私も例に漏れないうちの一人です。
私は7月からヨガインストラクターとしてフィトネスジムで働き始めたのですが、初日の日にちが遠いうちはなんでもないと思えていたのに、初日の日が近づくにつれ緊張が増してきたんです。このような経験、きっとどなたにもありますよね。初対面の人が集まって自分の自己紹介の順番を待っている間、クラスでプレゼンテーションの順番を待っている間、不思議なことに待ち時間が長ければ長いほど、心臓の鼓動が高まるんです。
だけど、私たちがこんな状況の時いつも不安になるのは何故なんでしょうね。待っている時間にこそ、ああしようこうしようと本番をイメージして楽しむことができたらいいのに。
私にとってその原因は明らかでした。それは、第一に私の中の自発性が育っていないから。第二に、頭の中でマイナスの想像が大活躍するから。
自発性はわたしが1歳を過ぎた頃から育ってくる予定でしたが、わたしは大人の考えに沿って動くことを強いられたために、自分のしたいことが分からない大人になりました。40歳前まで、わたしは誰かの意見に沿って動くには上手ですが、自分からアイデアを発掘したり、自分で何かしなさいと言われるとどうしていいかわかりませんでした。ですから “その時” を待っている間じゅう、相手は何を望んでいるだろうか、私のアイデアは相手の意に沿っているだろうかと不安で仕方がなくなるのです。
二番目に挙げた、マイナスの想像は、多かれ少なかれ未解決のトラウマを持ったまま生きている私には得意な分野です。なぜなら私たちは物事を、過去の経験を基準にして捉えますが、多くの場合私たちの意識は、苦くて悲しい経験の方に向きがちで、新しい経験をする時にもついつい、<前にもこういうことがあったし、あの時はこんな風に失敗した>と思ったようにいかなかった自分を思い出して、また今回も前と同じようになったらどうしようと考えるんです。
マイナスの想像を促進させる原因として、<読心術>というものもあります。 読心術とは、現代用語でいうと<空気を読む>ということでしょう。相手の顔の表情や体の動きから相手の心理を読もうというものです。
もちろん、ホワイトライ(善意の嘘)のように空気を察して相手に心使いをしたい場面が私たちの日常には多々あります。読心術をプラスに利用できるならば、私たちは周囲の人と良い関係を築き社会生活をより楽しむことができるでしょう。例えば日常で、思いついたことをすぐに言葉にせず、その場の雰囲気を読み、今ここで語るには相応しいかどうか吟味した後に伝えることができたら、私たちは本当に言葉を介して人々との関係をより暖かいものにすることができますよね。
しかし逆に、この読心術をマイナスの方法で利用してしまうなら、私たちは常に周囲の視線を気にして身動きの取れない毎日を過ごすことになりますね。例えば目の前で眉間にしわを寄せている彼や彼女、もしかしたら、目の前の彼/彼女はその人自身の問題で苦しんでいて笑顔を忘れているだけかもしれないのに、私たちは自分に何の落ち度があったんだろうと一生懸命考えてしまうのです。
このマイナスの読心術は私たちが子どもの頃に育てられるのです。例えば、わたしは子どもの頃「そんなことすると、○○に笑われるよ」、「○○すると、○○に怒られるよ」という言葉を度々聞かされました。何かに失敗したり、誰かの意にそぐわないことをすると自分は笑われたらバツを受けるのだと長い年月をかけて学び、他者の表情や動きによって自分を評価するという間違った方法を、まるでそれが自分の考えのように取り込んでいたのです。
ちょっと話が逸れましたが、そんなわけで、ヨガクラスの初日本番を迎える前の私はそんな自分に気づくまで、これまで一度も会ったことのない人々の意に沿わなかったらどうしようかとドキドキしていたのでありました。大変なエネルギーの消費量ですよ。このエネルギーのマイナス消費のおかげで数日間便秘になりました。
そこで私のしたことは、二つ。 一つ目は、スキルリスト(これまでに達成できたことや長く進めてきたこと)を自分に浸透させること。二つ目に、自分に安全な人々を探して彼らに多くの質問をする、ということです。「私はうまくいくと思う?」「このポーズはどう?」「私の英語はどう?」。不安の材料になっていることを次から次へと、自分にとって安全な人々に尋ねて歩くんです。実際には二つか三つも説明すれば、自分の周りには新しいことをしようとしている自分を脅かす人はいないんだと気付くのですが。笑。そして、「あー私ってお馬鹿ちゃんだったなー」と自分を笑ってそれから、今の自分に必要な言葉をかけてあげるのです。
<恥中毒症>
人間に失敗はつきもの。この、人として当たり前のことを、誰が笑ったり非難したりするのでしょう。確かに世の中には完璧主義に囚われた心ない人がいるのも確かですが、そのような人がいつも自分の周りにいるとは限らないですよね。しかしわたし達は本当にこの苦しい魔術の世界にとらわれてしまうのです。
このような状態が長く続いていることを、心の専門家たちは恥中毒症と読んでいます。「自分は自らの行動のせいでよく恥ずかしい目にあう」という固定観念を持っていて、例えば実際にたまたまなにかミスをして恥ずかしい思いをした時に、ほらやっぱり。。と思うのです。正確には、個の時の恥ずかしい思いも自分自身の中から湧いている場合が多いでしょう。米国心理療法家でインナーチャイルドワークの一人者と言われている John Bradshow は彼の著書 Home Coming の中でこれを中毒性の恥と呼んでいます。
恥中毒症の固定観念はいろいろな場面で自分の行動力を狭め自分に限界を設定し、一度しかない人生をつまらないものにしてしまうんです。もったいないですよね。それに、そんなヘンテコな恥を感じなければ、いつだって新しいことを試すのが楽しいはずなのに。この恥中毒症の固定観念がどこからやってきたのかは、前述したように私たちの子ども時代の経験を思い返すことで答えを見つけられるでしょう。もしあなたに何か思い当たることがあるならば、その糸口をたどってみるのも楽しいかも知れません。
自身のマイナスの面にきつくことは悲しいことではありません。わたし達は変わろうと意識することでいつでも自分を変えていくとが出来るからです。例えば、いつもマイナスの想像の中で生きてるなと思ったら、朝起きた時に「今日1日マイナスの想像をしない自分でいる!」と意識することで、それだけでも違うでしょう?言い方を変えて ("ない" を使わない表現にして)「今日1日、プラスの想像をする自分でいる」と決めると、もっと効果的な気がします。だって、そう言葉にした時点ですでに私たちは、昨日までのマイナス発想の自分とは違う自分になっているんです。そうした、プラスの自分が、新しいことに取り組む自分を応援するのです。素敵なことだと思いませんか?
ご意見ご感想をお待ちしています。
この会の名前になっている、"心のファシリテーターとして育つ会" には、人々が心の育ちを促進し合うという意味が含まれています。(ファシリテーター=促進する。日本でNPO Gobamcan を立ち上げ不登校の子どもと親ごさんを対象にしカウンセラーをされていた Haydo の立ち上げたものの、名前をお借りして継続させてもらっています) とかく経済主流の社会に巻き込まれがちな現代社会ではありますが、感じていることを少しでも言葉にし、さらに人々と語り合うことで心の勉強がより深いものになると信じています。
(生きてくる中でトラウマがひとつもない人はいません。私が実際に取り組んだ/取り組んでいるインナーチャイルドワークについて知りたい方はPMにてお尋ねください)
なーんて、最後はスーパーまじめな締めとなりましたが、来月も乞うご期待。。。して頂けたなら幸いです❤
まも
2017年07月10日(月) |
インナーチャイルドヒーリングワーク |
今日は興味深い体験をしました。ヨガクラスのミィーティングでのこと。普段から、グループの中では黙って聞き役に回る私。今日もまたそのようにして座っていました。ところが不意に発言したくなって、手を挙げて質問したのです。すると、先生を始めクラス中のほぼ全員(と思った)が私に耳を傾け、私の質問に対するいろいろなアイデアを投げかけてくれました。クラスは私の話題でしばらく盛り上がりました。その間私は、緊張しているが故にさらに支離滅裂な英語を使って、しかし一生懸命返答しようとしている自分自身をその背中から見ていました。私は、話題を提供し人々の会話の中に入って空間をシェアし楽しんでいる自分も見ました。
興味深いことが起きたのはその後のことです。ミィーティングが終わって車に乗った途端に、私はなんとも嗚咽を漏らして泣きたくなったのです。でも私には、泣きたいのは自分ではなく、私の中のインナーチャイルドが泣き出したのだとすぐにわかりました。その時は車を運転する必要があったので一旦気持ちを切り替えて自宅に戻り、戻るとすぐに、心の状態を確かめようと一人の空間を作りました。
それから泣きたい自分をもう一度呼び起こすように意識を集中させると、泣きたい自分に巻き込まれそうになる自分と、その奥で激しい声で泣き叫んでいる子どもの頃の私がいました。誰にも構ってもらえる誰も居ない家の中に放置されている自分とライス畑の広がる田んぼの真ん中で大きな声でおいおいといつまでもいつまでも泣いている小学生の自分。傷ついたインナーチャイルドです。
私はしばらくの間、彼女を少し離れたところから眺めていました。そして、「出てきてくれて本当に良かった」と思いました。大きな気づきを得たからです。ヨガのグループミィーティングでいつも静かに座ってただみんなを眺めているのは、単に英語のミスを恐れる自分ばかりではなかったのです。もう一つのもっとも奥深くに潜む根本的な原因は、子どもの頃に声を上げても気に留めてもらえなかった当時の傷ついたチャイルドが、「私は静かにしているべきなんだ」と大人の私に暗示をかけていたからなのです。
ということで今夜は、私はそのチャイルドのそばに座り、話を聴き、出会えて良かったと言葉にしました。その時間は約10分くらいだったでしょうか。彼女はしばらくするとすーっと消えていきました。今夜のところ、彼女はまだ私の中にいますが、私が楽であるのと同じくらいに彼女も今、少し楽なのがわかります。どういう風にわかるかというと、私自身が今とても楽だからです。
私はこれからしばらくの間、おそらく何十回何百回に渡ってこの傷ついたインナーチャイルドのヒーリングワークをすることになります。私は彼女を大人の私の中で育てません。彼女は当時したかったことをしなおす必要があるからです。私はイメージの中で、彼女がそのことができるように手伝ってあげます。これが、私が折に触れて、その機会を得るたびに真摯に取り組んでいるインナーチャイルドのヒーリングワークです。このような経験はありますか?あったら、もし良かったらあなたの体験を聞かせてくださいい。
2017年07月03日(月) |
心のファシリテイターとして育つ会6月号ニュースレター |
心のファシリテイターとして育つ会 2017年6月号 みなさんこんにちは。心のファシリテイターとして育つ会主催のMamoです。今月もまた、日々の出来事を通して心の探究を続けている私、今月のテーマは、感情と思考を切り離す、ということです。 感情とは<私たちが日々感じていること>でいいと思います。よく観察してみると、いつも何かを感じている私たちがここにいるはず。思考とは、<考え> なのですから、持っている価値観や自分なりの哲学と言えると思います。加えて、思考は多くの場合、感情をもとに起こるものだと思います。つまり、こちらもいつも変化するものと言えるでしょう。 目覚ましに起こされて起きたんだけど、昨晩寝付けなくて、眠いのに起きなくちゃいけない。 起きたはいいけど、頭がいたい。 今日は午後から友達と約束があったんだ。疲れてるし面倒だな。月曜日までの課題本もまだ読み終わってないのに。 でも断れないし。 あー雨が降ってきた。ますます憂鬱。 待ち合わせ場所に着いたところで友達がドタキャン。残業が終わらないって。せっかく頑張って来たのに、もうこの世の中どうなってるのよ。。 こんな風に何もかもがうまくいかない日を誰でも一度は経験していると思います。全部うまくいかないことを、こんな日もあるさって片付けることもできますが、ちょっと紐解いてみると。。。 朝の出だしがうまくいっていないですよね。1日の始まりがこんな風だと、その時点で、マイナスのムードを抱え込んだまま活動を開始してしまうことがありませんか? 例えば、起きるの嫌だな。。。の感情に巻き込まれてしまうと、その自分をどうするかという発想の転換ができないですが、眠くて起きるのが嫌ならば、あと10分でも5分でも3分でも、寝てあげればいいでしょう? 痛いという感情に巻き込まれると、これもうまくいかないでしょうけれど、頭がいないのならば、薬や何か他のものを利用して頭痛が軽減するようにしてみるといいんですよね。 約束を断れない理由を作って自分に無理をさせたり億劫と思う自分を責めたりるとますますネガティブになりますが、本当に疲れていて、または気が乗らないとかその他の理由でも、正直に断ればいいですよね。 ネガティブな感情の中にいると、何の害もない雨ですら恨めしく思えてきますが、雨が降ってるなら傘を使えばいいでですよね。 そして最後に、友達が残業でドタキャン。もう、世の中全てが間違つているような感覚にさえなってきますが、残業という現実的な理由がそこにあるのですから仕方がないですよね。 こうして考えてみると、日常の出来事は単に、今そこで起きている、または起きた出来事であって、私たちはその出来事に沿って自分を動かせばいいという、とってもシンプルなものだと思うのです。本当にシンプルでしょう?それはまるで、トカゲやアリんこが壁や石や何かの障害物にぶつかって、迷いもためらいもなく即座に道を変えて進み続けるくらいの単純なものだと思うのです。(何だか、トカゲとかありとか、おかしいですねぇ。笑) ということで、このようにとっても単純な <出来事> に速やかに対応出来るように練習してみませんか?きっと、物事って自分が思っているほど複雑でも難しいものでもなかった、ということに気づく日があると思います。 感情と思考を分ける技術を高めるものの一つが、瞑想です。瞑想というとなんだか、例えば座禅を組んでじっと座っているお坊さんのイメージが浮かんだり、普通の世界とは違うことをするようなハードルの高さを感じたりするかもしれませんが、瞑想とは、呼吸を整え、心を穏やかにし、脳を休めることで、ストレスやストレスを感じる度合いが減少し、自分の小さな感情に気付きやすくなったり、切り替えが上手にできるようになる、便利な道具なのです。(一文がちょっと長かったですか?笑)きになる方はリサーチ結果を探してみると、瞑想後の脳細胞や内臓機能の変化など、科学的な根拠も確認することができますよ^^。 実は、私はこの二ヶ月、座って行う2分瞑想1日6回という瞑想法を楽しんでいるんです。 方法は簡単。2分間の瞑想を1日6回するのです。どんなに忙しい方でも、2分という時間を作るのはそんなに難しくないでしょう? 私の場合はまず朝起きた時と寝る前。その二つを挟んで日中に4回、例えば車の中やシャワールームなど。場所はどこでも構わないですし、2分なんて本当にあっという間ですよ!時には姿勢を整えているだけでも過ぎてしまうんです。それでは瞑想したことにならないじゃないかという方もいるかもしれませんが、まずは瞑想しようと姿勢を整えてみた自分がまず素晴らしいではないですか。それに、せっかく姿勢を整えたのだから、続きをしてみたくなるのも自然なことです。 さらに、世の中には音楽を利用したり日記を書いたりと、いろいろな種類の瞑想がありますから自分の気に入ったものを利用して、取り組んでみることをお勧めします。そして、必ずメモを残すこと。私の場合、それは日々成長している自分を体感する大切な道具になっています。読んでくださったみなさんも、一度試してみませんか?そして何か感じられたことがあったらぜひ私にも聞かせてください。 この時期、カリフォルニアは気候が安定せず、とっても暑い日の日が沈むと、とっても寒くなったりします。日本のこの時期も同じですよね。皆様、お身体大切に^^ Mamo
あらあらあら。。。あれこれしている間に一ヶ月があっという間に過ぎています。時の経つのは本当に早いですね。 そして、今日はしばらくぶりにこちらへやってきたにもかかわらず、ほんの少し書いておきたいな、と思うことをのコズのみの日記です。内容は以下:
みなさんが御住まいの地域の気候は最近いかがですか?私の暮らすカリフォルニアは数週間とても暑い日が続いています。日本に比べると湿度が低いので過ごしやすいのですが、湿度が低い分、体から出て行く水分が多いことに気づきにくいので、水分を取るのを忘れるとあっという間に疲れが出てきます。
疲れに気づいた時、私はできるだけ、少しでも横になります。しばらく目を閉じて瞑想をします。しばらく深く長く呼吸をして、手足の先まで体が温まってきたのを感じられたら、自分の両手をお腹に当ててみます。ここで自分の持っているエネルギーを感じることができます。しばらくしたら、両手を上にずらして、腎臓や膵臓、消化器官に当たる部分を少し時間をかけて触っていきます。左右のどちらかの手一つを後ろへ回して臓器をサンドイッチするようにします。
こんな風にしていると、疲れている部分を自分で感じられることがあります。場所がわかったら、その場所にしばらく手を当てて呼吸を送り届けることを繰り返します。こんな風にして、大抵は10分くらい、短い時で5分くらいの時間を使って体に意識を向けてあげます。そして、10分後にはかなりの確率でエネルギーを取り戻した動きの軽い自分になることができます。
このようなことを試してみたことがありますか?もしあなたが、私と同じような経験者でしたら、もしよかったら、お話を聞かせてください。
人間の体は素晴らしいということをどれくらいの人が毎日感じているでしょうか?例えば私は、今こうしてタイピングするという作業の際にも、何千という小さな小さな細胞がこの動きを担ってくれているということを、そのつど意識することなど殆どありません。
そんな私ですが、最近、解剖学を学ぶ中で、私たちの身体はすべての動作において、必要最小限の細胞を使うようになっている、という事実を知りました。例えば、腕を曲げて何かを持ち上げた時、しばらく後に腕がプルプル震えてくることはどなたにも経験があることだと思います。この、腕が震え始めた瞬間、体内ではそれまで腕を持ち上げていた細胞がエネルギーを使い切った後その役目を終えようとしており、そのすぐそばで別の細胞が役割交代しようとして動いているのだと。また、ある動作が繰り返し行われることで、脳はその動きに必要なエネルギー量を計算し、どの部分をどのように使うかを探し出すそうです。長年続けていることの中には無意識に出来てしまう理由はここから来ているのでしょうか。
こんなことを考えていて、心の状態も同じだなと思いました。どういうことかといいますと、私たちの心も、エネルギー消費ということに関しては最小限の範囲で行うようになっているのではないかと。このように捉えると、例えば日本で社会現象とも言える、引きこもりや不登校、出社恐怖症と言われている人々は、消費しきったエネルギーを充填する必要があって、社会から離れているのだと。
私たちはコミュニケーションを取る生き物として生まれているせいか、世間ではとかく社会と関わりを持っていない状況を不安に思ったり、周囲から何かしらネガティブなイメージを持たれがちですが、ガソリンが無くなった車はガソリンを補充してもらうまで動けないように、ガス欠になってしまった心もエネルギーが満たされるまで、安全な場所で過ごす必要があると思うのです。その環境がたっぷりの愛とやさしさで満たされていれば、その回復が早いことは一目瞭然です。
そんなわけで、改めて人間の体はすごいな、と感心している今日この頃♥
継続は力なりと言いますし、どんなことでも続けていればそれなりに成長するので面白いものです。しかし、続けることは時には難しいですよね。この忙しい時代、目の前にある問題や興味そそられることについつい時間を消費して一日を終えてしまうものです。そういう私も、もともと三日坊主です。少しずつでも続けるために、続けたいことを大きな紙に書いて目に留まる場所に貼り付けるのは私の習慣ですし、毎年初めの<今年の抱負>の中には必ず、三日坊主を4日坊主にする、という言葉を入れます。笑 結構効果がありますよ^^
そして、そんな私の中にも、またはその他の、自分は物事を続けられない大人だと思っていらっしゃる方にとっても、生まれた瞬間から今の今まで、どんなときも途切れることなく続けられていることがあるんですよね。それは、息をするということ。もっと素敵な言い方をすると、自分を生きるということだと思います。
どんなに細くても小さくても、息をしている間、私達は生きている。生きて一秒先へと進んでいる。 現在の生き方が気に入っているかどうかはさておいて、私達は、生きるということを途切れることなく続けているのです。 なんて素敵な継続力だと思います。この継続力がより良い方向へ伸びていきますように^^
人と関わっていると、時々不快になったり悲しい思いをすることがありませんか? 特に仕事をしていると、職場においてはその頻度が高いのではないかと思います。例えば私の場合、先日、職場で男性上司と電話で話をしているときに上司が他者の命を軽視していると受け取れる言葉を口にするという出来事がありました。私は予期せず飛び込んできたその言葉に戸惑い、返す言葉がありませんでしたから、沈黙の数秒が過ぎました。上司の使った単語を書いて表すのは控えさせていただきますが、ここに書くからにはそれなりに過激な言葉であったと想像して頂けるとうれしいのですが、このように、上司の言葉に傷ついたり戸惑ったりするケースは世界各国で起きることだと思います。
その後の経過は省略させていただきますが、私は当初、受け入れられない物事に対して沈黙という形で抵抗した自分を評価し、仕事を終えて自宅に戻った後には、すっかりその出来事を忘れていたのです。ところが。。。
それから数日後、その時の様子を同僚に話していたときのこと、しだいに胸のあたりが重たーくなり悲しみが沸き起こってきたのです。あれれ?と不思議に思いませんか?上司と会話をした当初は、私はただ予期せぬ状況に戸惑っていたのみなのに、数日後の私は戸惑いに加えて悲しみも感じているのです。何だか変でしょう?私の中で何が起きたのでしょうか。
実は、悲しみという感情が加わった理由は単純です。悲しみの直接の原因は上司ではありません。上司の言葉は私の心の扉を開く引き金にしか過ぎないのです。つまり、大人の私は、上司の言葉を聞いて、うんと昔の子どもの頃に家庭内で日常的に聞かされていた大人同士のネガティブな会話を思い出し、それに伴う子ども時代の悲しみに巻き込まれたのです。もっと簡単に言うと、大人の私が自分の潜在意識の中にいる傷ついたチャイルドに巻き込まれる、という現象が私の中で起きていたのです。
大人の私はチャイルドに巻き込まれていても、子ども時代と違って、感じている悲しみを隠したり、感覚つまり感じる度合いをコントロールしたりすることが出来ますから、子ども時代のように気が済むまで泣いたりしきりに誰かに訴えたりはしません。別の言い方をしますと、大人の私は悲しみに巻き込まれた自分を抑圧することが出来るのです。無意識に。しかし、そんな自分をよーく観察してみると、どこかしら活気がなく、私自身の好奇心がここ数日、幾らか小さくなっていたことに気が付くのです。
いつでも同じことですが、気付きは変化のきっかけですから、私はすぐにトラウマを癒やす作業をし、今は、いつものように晴れやかな心でここに座っています。どなたか他の皆さんにも同じような経験はあるかな、と思いながら。
自分観察は何よりも面白い遊びの1つです。もしよかったら、あなたの体験を聞かせていただけませんか? 貼付の写真、ピントが合っていないんですが、気に入っているので載せちゃいました♥
先日ヨガを通じてお友達になった女性とランチをしていたときのこと。話題がつい最近の北朝鮮から日本海に向けた放たれた不発弾ミサイルの話になりました。ただ、私たちの会話は、それが恐怖であるとかこれから日本はどうなるのかとか(これは最も大切なことではありますが)ではありませんでした。それは、この不発弾ミサイル騒動を通して思う、誰がどこでこの地球を支配しているのか、ということだったのです。
彼女と私の意見は大方一致しており、つまり、北朝鮮の不発弾ミサイルは計画的に不発で終わっているのではないか。背景にはここ数ヶ月の、某国大統領の分別のない行動から世界の人々の関心を紛らわせるという目的があるのではないか。北朝鮮はいつも、ミサイルを不発で終わらせているのは、どこからかそのような支持を受けて行っているのではないか。そうでなければ、なぜあの国が不発弾ミサイルをいくつも出し、莫大な資金を無駄にしながら、それらを作った国民を大々的に処罰したという情報が世界に流れないのか。などなど。。。
私たちの会話はあくまで憶測にしか過ぎないので、これを読んでいるどなたにとっても本気で受け取っていただくことは危険ですが、少なくとも、それが正しいかどうかわからないとしても、私たちの憶測が間違っていたとしても、このようにして世の中で起きていることを鵜呑みにするのではなく、そのもう一つ奥を読んでいくと、それだけで、なんだか楽しいですし、私たちはただ漠然と生きているのではなく、自分の意志で、この地球上で生きているのだ、という気持ちになれるので不思議です。
皆さんはこんなふうに思うことがありますか?
|