「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2016年12月10日(土) |
次女のアイデアに思うこと |
先日次女と会話していたときのこと、日本という国の話になりました。私たちの結論は<日本、このままでは危ないよ> です。経済主義の日本は今、物で溢れ、あふれる物の代わりに人口はますます減り、そんな日本に落胆しきった人たちは海外へ進出し、うーんと将来には、一人が一人を介護するという時代がやってくるのです。日本は、このままでは本当に危ないのです。
そこで娘が自分のアイデアを語ってくれたのです。それは何かというと、「総理大臣が皆を洗脳して、皆がもっと仲良くしていれば、もうそれだけで皆が幸せになれると、人々が思うようになる」ということだそうです。
次女は今年22歳になり就職が内定している大人です。そんな彼女の発言。もう子どもではないのに、何を言ってるの。。。と思う方もいらっしゃるでしょうか。しかし私は彼女の言葉の中にある素朴さに、体の内側からこみ上げてくる熱いものを感じました。私の脳裏には、10年以上も前に、ダンゴムシを手の平いっぱいに集めて家に戻ってきた頃の小さな彼女が蘇ってきました。子どもは素朴で純粋です。疑うことを知りません。虫も人も他の生き物も、ただそこにいて、地球という1つの島で仲良く暮らしているのです。
娘の言葉の中には、彼女自身が生活の中で感じる自分には手の届かないところにある大きな力に対する結論も入っているのでしょうか。きっと、これまでに折に触れて、社会がもう少し良くなるようにと、大人の思考でたくさんのことを考えきたのでしょう。しかし、それらはたいてい、若くして国会議員になった青年たちがいつの間にか姿を消すように、古くからの習慣や社会のルールや何かの理由で小さくなって自分の奥の方へしまい込まされてしまったのでしょうか。そうして、最終的に、このアイデアにたどり着いているのでしょうか。
などと、思いつく範囲で私の思うことを書きましたが本当のところはわかりません。しかし私は、次女の中に今もある、人としての素朴さを手伝える大人でいようと思いました。
少し前に娘の一人から、離婚後から米国に来るまでの経緯を聞かせて〜〜とお尋ねが来ていたので、今その作業をしています。作業と言っても、してきたことを思い出しつつ書き並べているだけなのですが、書いているうちに当時の考えや心の状態が蘇り、いつも自分に正直に生きてきた自分を改めて確認しています。
実は、アメリカ生活も5年目に入っているのです。米国での夢はまだまだ遠い先にありますが、日一日の行動が未来に繋がるように生きています。
大切なことは、今ある健康をできるだけ長く維持することでしょう。50年間使ってきた、この体と心、50年間のうちの幾年かは方法を知らずに乱暴に生きてきた時期もあり、身体に現れたその影響を感じることがありますし、普通に暮らしていても順調に衰えていく部分もあるのですから、それも全て受け入れて、そして、そんな自分の心と体を大切にして毎日生活しています。
私の記憶では、このようなことを確か、離婚してすぐの頃にも毎日のように意識して過ごし事あるごとに、その出来事と思いを書き綴っていたのです。これからもこの取り組みを続けて、又数年後に同じことを、又は今より少し広い世界のことを語っていられる自分で居たいな、と娘に手紙を書きながら思いました。まるで、糸が細く長くつながっていくように。
最後に、このようなことを再確認するきっかけを掴めた娘の好奇心に、ありがとう。
先日、英語がよく出来るベトナム人の男の子と話しをしていた時のこと。「ネイティブのクラスで早口の英語を聞いているので、ついつい自分も早く話そうとしてしまう」という私を見て、彼はアメリカの人々が他者や社会に求めているものについて語りました。その内容が興味深かったのでここに記しておこうと思います。
「米国という国は色んな国から来た人々が集まって出来ており、多種多様な国だ。米国そのものの色が何色か、アメリカ人は何が好きなのか、本当に語れる人は居ない。この多種多様な国で、人々が求めていることは、他の人と同じようにできることではない。彼らが求めているもの,興味をそそられるものはユニークさだ」
この言葉を上記した私の言葉に当てはめると、私の場合は、私の目的は彼らと同じように話せるようになるのではない、ということなのです。私はもちろん彼らと同じようになろうと思うことはありませんが、少なくとも相手につられるように早口になっている自分が居たのです。時には、彼らと違う自分を無意識のうちに小さく見せようとしたことが合ったかもしれないのですから、本当に素敵な言葉を聞いたと思いました。
彼はまた、成長途中の私の英語について、2つの単語をリンクさせずに、一つ一つの発音やアクセントを丁寧に練習して少しずつ習得することだとアドバイスをしてくれました。彼いわく、それは遠回りのようであるけれど実は確実な方法なのだと。私からすると、それはまったく遠回りではなく、通って然るべき道なのだと思いました。
多くの人が何かの目的に向かって走り続ける社会では、<一つ一つ> を意識するだけで既に、ユニークさが出ているような気がします。これからもそんな私を大切にして生きていきましょう。
いよいよカリフォルニアにも秋がやってきました。私は暑い気候のほうが過ごしやすい体質ですが、この時期移り変わっていく木々の色や雲の変化を観察するのがとても好きです。ところで、秋は空や森の中だけにあるのではないのです。秋は時に、車を止めたアスファルトの上にも感じられるのです。そう、落ち葉さん。。。。
この時期、オレンジや赤に衣替えした落ち葉はその色合いから暖かさを醸しだしています。また、地面の落ち葉は夏の面影を残した太陽によってすっかり乾かされています。そうした落ち葉たちに足を降ろした時の靴底から伝わってくる感覚と、靴の重みで枯れ葉が否応なしに縮んでいく時のクシャッという音は私の五感に鋭く届くのです。
夜になるとまた別の楽しみがやってきます。そう、済んだ夜空に輝く星たち。夜風はいくらか冷たいけれど、まだまだ身が凍えるほどではなく、外に出て空を眺めるには快適な季節なのです。
そんなわけで私は秋の景色が大好きなのです。このようにして秋の景色を満喫しながら、身体も少しずつ冬支度をしているのでしょう。
未来を語り合える友人を探すことは意味のあることだと思います。理由は、私達が自分の未来を語り合うことはその未来を作ることでもあると思うからです。語り合う未来は出来れば不安やネガティブな想像ではなく、今とは違う何かがあるという可能性を持っているものがいいと思います。そしてもちろん、何か困っていることや辛いことがあるときにはそれらを傾聴し出口を探すきっかけを掴むことが出来ると思います。
私は先日、日本人女性の友人とそれぞれの未来話に花を咲かせて気がつけば6時間もの時間が経過していました。その間に夕食を食べたり場所を移動したりしたので時間は少し短縮されますが、時間を忘れて語り合える材料がお互いにあった、ということに変わりはありません。
私達の話題は健康面、仕事や学校の話、少ないものの中でシンプルに暮らすこと、知識をどのように得て知恵に変えるか、さらにはお互いのパートナーとの関係や、他者と暮らす中で自分の気分がすぐれないときの対処法などなど。最後はこのカリフォルニアでどのように楽しみつつ生計を立てて将来を安らかに迎えるか。そして、誰にも訪れる死。どのサブジェクトもまるで話し相手を待っていたかのように後から後から繋がり広がっていきました。
理想の死に方を語り合うことは会話の終わりではありませんでした。その、いつかは訪れる死を自分の思う形で迎えられるように今からできることは何だろうかと、そのようなことに思いを巡らせつつ会話は尽きませんでした。
私は、このようなことを気軽に話し合えることはよいことだと思っているのです。なぜなら私達は普段、目の前に見えることや気になること、または今日や明日などの近い将来に必要なことを進んで言葉にすることが多く、少し遠い未来のことやもっと深い心の奥のことを言葉にするタイミングを掴みにくい環境に居るからです。
私達の普段の生活の中には10年後の私達が居ます。その自分達になれるよう、明日も又また今を生きようと、友人との会話を振り返りつつ思うのです。そうなるぞ!と頑張りすぎる必要はなくて、ソフトに、そうなれたらいいな、という気持ちで柔らかく。。。
少し前の話なのですが、10年後どんな生き方をしていたいかなーと思いながらなんとなくネットサーフィンをしていたら、韓国の若い御夫婦さんが、福島原発事故をきっかけに、これからの生き方について考え、それまで当たり前のように楽しんでいた都会ぐらしを止めて自然の中で自給自足の生活をするようになった、という記事にたどり着きました。大自然の中で自給自足の生活。カリフォルニアのやや都会で英語での学力を積み上げつつキャリアになるものを探している私の今の生活からは少し遠い距離にありますが、それでも、10年後20年後を考える時、このような情報は私の未来をさらに明るくする材料になります。10年後の人生を思い描いていた私のアンテナが行き着くところにたどり着いたような気持ちになりました。 やはり、<なりたい自分になるために>編んて花いつも貼っておくのがいいですね。
彼らの生活に興味をおもちでしたらリンク先をご覧ください^^
http://m.huffpost.com/jp/entry/11970186?ncid=engmodushpmg00000003
今を生きる、という言葉がありますね。読んで字のごとく、過去でも未来でもなく、今を生きるのですよね。このことを考えるときに浮かぶのは、いろんなことは結果よりもその過程を楽しむことに意味があるな、という考え方なのです。
このような考えが浮かぶのは何故かと言いますと、結果を意識しすぎると先のことに目が行って、或いは意識が未来へばかり行ってしまい、本来、今することを忘れがちになると思うからです。もう一つ、結果を意識しすぎることの弊害は、結果にこだわる自分になる可能性があるということですね。何処かで、<適度に掴み適度に放す>をみなさんと語り合ったことがありますが、良いことでも過度に掴むと弊害になる可能性があるのです。
話を戻して、本来、<今することをする>ことが結果オーライの自分になる一つの方法だと思うのですが、その、今<すること>は何かというと、<今を楽しむこと>ではないかと思うのです。
このようなこと、実は、言ってみるのは簡単なのですよね。人生はいつもじぶんのおもうようにいくものではないのですから、<言うは易し行うは難し>という言葉は当たっていると思います。
そして、それでもなお、<今を楽しむこと>を意識していること。ここに大きな価値があるのだと私は思っています。<今を楽しむこと>こそ、<今を生きる自分>に繋がっているのではないでしょうか。つまり、<今日を楽しんだ自分>は<明日の自分へと続いている>からですね。
呼吸って不思議ですね。呼吸は人の心を映し出すと思います。びっくりした時 人は自分がそうしようと思うより早い勢いで呼吸を止めます。足取り早く歩く時、人は足取りに合わせるように浅くて早く息をします。しなければならないと思っていることが次から次へと頭のなかを駆け巡るとき、人は吐く息よりも吸う息のほうが深くて長いです。耳を済ませる時、人は息を止めて、その微かな音に聞き入ろうとします。呼吸は私達の動きに合わせているんですね。小さな針の穴に意図を通すときにも人は息を止めます。ムムム?呼吸についてなんとなくわかってきたことがありませんか? そうですね。呼吸は私達の意志でコントロール出来る機能だということが出来ますね。
ちなみに、呼吸は自律神経と深い関係がありますね。吸う息では体を活動的にし、吐く息ではリラックスさせるのです。 人は活動的になるといろいろなことが出来ますね。しかしそれは長く続けられません。身体には休息が必要だからです。人はリラックスすると、身も心もゆーったりして本当に居心地がいいですね。この最終地点は睡眠だと思いますが、人はなにか理由がない限り眠り続けることが出来ません。身体は活動することも必要だからです。ムムム。ここでもう一つわかってきたことがありませんか? そうなのです。体を活動的にする効果のある吸う息とリラックスさせる働きのある吐く息はどちら日に偏らないことが大切なのです。
しかし、なんだか嬉しくなってきました。なぜなら、呼吸をコントロールすることで身体の機能を司る自律神経をコントロールすることができる、つまり、健康な体を作ることが出来るとわかるからです。ちょっとご自身の動きを観察してみて、足早に歩いている自分を見つけたら、心の鏡を見ていると思っていいかもしれないのです。一度深呼吸をして、その呼吸の長さを続けるような気持ちで次の一歩を踏み出してみると新たな発見があるかもしれないと思いました。
50歳になりました。素直に気持ちを表現すると、自分が50年も生きてきたなんてとびっくりしています。何故かと言うと、50年は100年の半分で、私にとって100年という年月はとても長い期間だったからです。100年の半分生きてきた自分に感動すらしています。
思えば去年は1年間、折に触れて、これからの生き方について考えていました。中年期という言葉も見つけて、なるほどーと関心もしたのもその延長です。ちなみにいろいろなところで言われているように、中年期は (子が居れば) 子の自立と (両親が居れば) 両親の介護、体力の衰えと、叶わない夢や現実があることを実感する、怒涛のごとくいろいろなことが巻き起こる、思春期の次に大変な時期と言われている時期なのですよね。
確かにそのとおりだと思います。私の両親は見る度に小さくなっており、子ども達は声を聞く度に自分の世界を広げており、そして私は、今でも夢を持って生きているけれど、その夢はまだまだ遠いところにある。叶うめどがまだ立っていないのです。つまり、この時期私は、自分には限界があるということも我が身の体験を通して学んでいるのです。
この一般に言われる怒涛の時期を良い形で通過するためにはとかくプラス思考が望まれると、言われていますね。そうですよね。プラス思考はどんな場合にも役に立つアイデアなのです。
というようなことを昨年一年間考えつつ学びつつしながら向かえた50歳の私は現在アメリカにいます。
もう何度も思いましたが、どこに行ってもそうであるように、アメリカで暮らすのと外国に行くのとで随分異なるものです。これ又どこの国でも同じように、全てのものにはブラストマイナスが存在するので、よいところは見習って、自分になじまないところは適当にいなして、つまりプラスを見て生きていこうとやはり思うのです。
大切な事はいつも自分を見失わないことです。私のする事は、これからも、アメリカ社会に馴染んでまるでアメリカ人のように生きられるようになることではなく、日本人の自分に、誇示執着して生きることでもなく、水の流れに乗ってゆったりふんわり生きる自分を生き続けることなのです。50歳になってもまだまだ、というより、50年生きているからこそ改善するべきところは沢山あるのですから成長のしがいが有るというものです。50歳の自分も楽しくさせるためには、知らないことを知らないと言える、疑問に思うことを尋ねられる勇気を持ち続けることも見逃ません。
ということでまたまた、なりたい自分になれるように、今年の目標を決めたのでここにかいておこうと思います。
日本以外の国の料理がもっと作れるようになろう。 三日坊主を四日坊主まで伸ばそう。 真の自分と一番仲良くしよう。
こうして私のアラフィフライフが始まりました。
発達段階という言葉がありますね。発達課題とも言うと思います。人という生き物がどのように発達を繰り返していくか、昔々の精神科や心理療法家によって基準の1つとして定められたものだと思います。それが全てであるという見方は危険だと思いますが、例えば『インナーチャイルド 本当の貴方を取り戻す方法』に載せられているグラフで見る人生初期の発達の程度(P110〜)は私にとって興味深いです。
例えば、三つ子の魂百までと言われるように、子ども達がどのタイミングでどのように彼らの発達段階を通過していくかは全て周囲の大人の手にかかっているという事実は既に多くの人が語っていることだけれど、その、幼少時に築いた、あるいは植え付けられた価値観はその後の長い人生でいつも何かを判断するときの基準になるということを意識するとき、必要な時期に健康に発達出来なかった部分については、機会を見つけて健康な状態へ持っていけるようにしたいと折に触れて思います。
自分にどの部分ができていて、どの部分が未発達のままなのかを知るためには、毎日自分の内側に意識を向けることが大切ですよね。私はその時間を毎日ほんの5分でも作ってあげられるような、自分へのやさしさを保つようにしています。
自分のことをそんなふうに言い切っていいものかな、という疑問が沸かないでもないですが、私は、自分達に対するやさしさはいつも私達の中にあると思っています。
人間は本来、自分を守れるように、自分を生かせるように生まれているんですよね。そう思うと、自分にやさしくあるのも自然なことだと思います。つまり、このやさしさをキープしていられるならば、少々未発達の自分もありのまま愛して、不足な部分を丁寧に満たしてあげる毎日を送れるのだと思っています。そうして、過去に健康に通過できなかったテーマも少しずつ、乗り越えていける。
このように捉えることが、昨日より又少し大人へ成長するための一つの方法かな。
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