「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2016年07月07日(木) 国際交流

人が国際交流をする上で弊害になることがいくつかありますね。まずは、言語。ちなみに、言語の中には、言葉を使った方法と身振り手振りや顔の表情などで行える方法がありますね。言葉を使った方法は自分の言葉が耳に入ってきますし、言葉というのは伝えた分だけ伝わるんだという事を思えば、自分が交流を持ちたい国の言葉を学べば意外とスムーズにいきそうです。でも、非言語的、ジェスチャーや表情で行われるコミュニケーションは言葉を使うより誤解が生じやすいですね。その理由は、私達は見たものを私達の基準で判断するからでしょう。例えば、多くの欧米人は道で会う知らない人にも笑顔を送って、私はフレンドリーよ、とアピールします。しない人のほうが変な感じにさえなります。しかし多くのアジアの国では知らない人には笑いかけませんし、そんなことをしたらなにか怪しい人と思われることもあるでしょう。特に男の人が道端で女性や少女に笑いかけたりしたら、性的な目的でもあるのかしら、と思う人さえ居ると思います。

次に弊害になりそうなのはその国独自の文化や習慣でしょう。前に書いた、見知らぬ人に笑いかけるかどうか、ということも昔からある習慣の違いだと思いますが、更には、食事や挨拶の仕方、なにか断るときの方法、他者と自分との間にどのように距離を置くか、友達を持つ目的は。。。などなど言いだすときりがありませんね。例えば、インドでは指を使って食事をしますし、ベトナムでは今でも床に座って食事をします。アメリカではパーティーの時に、多くの人は立っています。どうやらその理由は、歩きまわってより多くの人と交流を持つためのようです。日本のように、招かれた部屋の座布団や椅子に座って、用事がない限りは動かないでいる、ということがないんです。招かれた家といえば、アメリカでは、ホストは初めての訪問者にはまず家の中全体を見せて歩きます。壁に飾っている家族写真や置いてある鉢植えの花の名前、ベッドルーム。ベッドルームに関しては、ちらりと見せてくれる人もいれば、部屋の中まで招かれてあれこれと説明してくれる人もいます。日本では、先ほど書きましたが、招かれた部屋から出ることなどトイレにいくとき意外にないのではないですか?私はもともと他の人の所有物にそんなに興味が無いのですが、それはもしかすると、小さいころ両親から「人のことをジロジロ見てはいけない」と言われていたからかもしれないとも思っています。訪問した先の家の中を見回すことが失礼な行動のような気がするのです。もう5年近く住んでしまったのでアメリカのいろいろな習慣にもだいぶ慣れてきたけれど、以前はアメリカの人の家に招かれ家の中をあちこち見て回っていることに<これはなにのためにしているのだろう〜〜?>と疑問を持ったものでした。このように、普段の何気ない行動は全て、全く役に立たないものから役立って仕方がないもの、それから、そこそこいいものも含めて私達の文化や習慣から来ているんですよね。その異文化を真っ向から否定したり恐ろしい何かだと感じないように広い視野で居ることが国際交流を楽しく進めていく方法の1つですね。

もっと長く書きたかったんだけど、今から出かけなくちゃいけません。ということでこの続きはまた後ほど!


2016年07月05日(火) 生きるために大切なこと

 この日記のタイトルについていつもより少し深く思いを巡らせました。タイトルは<生きていくのに大切なこと>です。本当に、<生きていくのに大切なこと>って何なのだろう。

身体、知識、知恵、雨風凌ぐ家とか何か、夜のために火の気がいるのではないかな。保温のために衣服も少し。それからそれから?この時代、ある程度便利な場所に住んでいたら全てを自給自足で暮らすことは難しいので、お金も多少要るでしょう。

と、一通りサバイバルのためのものが出尽くした後、胸のストンと落ちてきたのがあるんです。それは、素直な心の自分です。

人間とは不思議なもので、いろいろと欲を持って叶えることばかりを意識して生きていると、自分の外にばかり目が行って自分の内側に気持ちを向けることが出来ないではないでしょうか? あまりに欲深いと、一つの欲が叶ったらその次そしてその次と、まるで大きくて黒いドラム缶に思いつくものをひたすら押し込んで、気がつけば下の方は全く見えなくなっている、というような時間も労力も無駄にしてしまう生き方になってしまうこともあるかもしれません。そんな状況の中では、見えるものだけが大切に思えて見えないモノには目が行かなくなって、いつしかその存在すら忘れてしまうこともあるでしょうか。そして例えば、見えるものというのは身体の外側にある物理的なもの、見えないものというのは自分の内側と言ってもいいのかな。

もう一つ不思議なのは、こんな風にして自分の内側のことを思い巡らせているだけでやさしく穏やかな気持ちになってくることです。それから急に、自分の周りだけ時間がゆっくり流れているような気持ちになるんです。ここまで来たらハッピッピ。「(カレッジに通っているので)良い成績取りたいな−とか(ヨガインストラクターもしているので)もっとたくさんの人にレッスンに来てもらえたらなーとか、自分に少し無理をさせてしまう思考を発見し、そこからも開放されるんです。

そんなことを思ってつつうらうら、最後は、自分の心が見えるように、もっともっと身軽な生き方をしていこうという再びの思いに終わりました。必ずしもそうだと言い切ることは出来ないけれど、私の場合、周りにモノが少ないほど、自分の内側を見ることが出来ます。

みなさんはどうですか?あなたが、生きるために大切にしていることは何ですか?


2016年07月01日(金) いつも楽しいのが人間

 先日どこかで、<いつも楽しいのが人間>という一文を読み、非常に共感しました。そう。いつも楽しいのが人間なのです。私はこのことを、心の傷を癒やすようになってからのち徐々に実感するようになりました。その実感する時間の長さは、傷を癒やして楽になってきた自分に比例しています。

その文章を見た後、思い出した経験もありました。以前職場で夜勤をしていた時、一人の同僚に「一晩楽しく仕事しましょう」と言った時のこと。彼女は「楽しい仕事なんてどこにもありません!」と言って怒ってしまったんです。その同僚はいつもとても頑張って働いている人でした。

その後私はあることを思いました。それは、人は自分が苦しい時には楽しい物を見ても楽しいと感じられない、ということです。私のその他の経験を含めてそう思ったのです。(この部分はきっと、同じものを見てプラスに捉える人とネガティブに捉える人の違いにつながるのでしょう)そして、いつもプラスの視点を持っていたいという思いからますます、癒やしの作業を進んでするようになりました。実際に、楽しく生きる時間が増えていく自分を見ているのは楽しくて、そんな自分をもっともっと好きになりました。

追記。癒やしの作業について少し触れましたが、私の場合はそのような経過を辿ったということのみで、心の傷を癒やさなければいけないと説得しているのではありません。何というか、いつも楽しいのが人間、という捉え方って良いな、というお話でした。


2016年06月29日(水) <役割依存症>について語り合う日を設けました

本日は、毎月第一土曜日に開催している<心のファシリテイターとして育つ会>の7月号予告を書いておくことにしました。

日本時間2016年7月2日(土)午後12時より14時まで 
Skypeにて

今月の育つ会は <持たされた役割> について語り合ってみたいと思っています。

例えば。。
"あなたは子どもとして大事にされる技をどのようにして学んだでしょうか?”

家族の中の役割とは、
ヒーロー、スター、いい子、お母さん子、お父さん子、スケープゴート、被害者、問題児など、落第者や交通事故に頻繁に遭うケースさえも、役割の1つとして捉えられています。

これらは、子どもが育つ家庭/過程で家族の和を保つためにひたすら、無意識の中で続けられてきた役割です。

それぞれの役割を担うことで、自分は家族にとって大切な存在なのだと感じ、自分を落ち着かせてきたのです。

この延長は、<役割依存症>です。

本来の自分は意識の下の方へ押しやられ、役割として演じてきた自分をあたかも自分自身であるかのように感じ続け、演じ続けます。
無意識の世界へ押しやられて、自分を感じることがないばかりか、役割を持った自分が本来の自分であると錯覚してしまうことがあります。

役割依存症は自分と他者・家族との自分との間に共依存の関係を作り出します。

共依存:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E4%BE%9D%E5%AD%98



この "役割から抜け出す” ためには以下のようなことが出来ます。

1.どんな役割を持って生きていたか、又は生きているか確認する

2.その役割のおかげであなたや家族が過去に永久的な安定を得ることが出来たか、または現在も出来ているか確認する

3.その役割のために、あなたはどんな感情を抑圧しなければならなかったか、又は現在も抑圧しているか確認する

*これらのことを確認する段階で当時の感情に圧倒される場合があります。例えば。。。

”今更こんなことしても意味が無い” と否定的になったり "別にどうとも思わない” と、この確認に対して急に無関心になった場合などは、当時の感情に圧倒され巻き込まれていると捉えることが出来ます。

過去の感情への圧倒感を避けるために出来ることは、例えば。。。
現在持っている能力をしっかり意識して(注1)できるだけ静かな場所で、過去の自分(注2)とおとなの自分(注3)との間に明確な線を引いて、確認を行います。

注1)今のあなた/大人のあなたにできること/プラス面を意識し、そのことを心や自分の意識一杯に満たしておくことはとても大切なことだと思います。これをアメリカの精神学者ジョン・ブラッドショーは <能力のリスト> と呼んでいます。

注2)過去の自分とは、この場合、役割を演じ始めた子どもの頃の自分です。ジョン・ブラッドショーや多くの精神学者、セラピストは家族システムの中で役割を演じさせられたり、何らかの形で他者に傷つけられた子どもの頃の自分のことを<インナーチャイルド> と呼んでいます。

注3)おとなの自分とは、現在の自分、しかし、周囲や社会の状況にとらわれず、いつも自分を大切にして、自分の世話が自分でできる、自分にやさしい自分のことです。

などなど。。。。

このような題材に興味のある方が増えるといいなぁと思っています。

参考文献『インナーチャイルド 本当の貴方を取り戻す方法』 ジョン・ブラッドショーP294より


2016年06月17日(金) 自信は後から付いてくる

試験中なので、少し勉強に時間を使っています。ちなみに、私が勉強って楽しいんだなと思ったのは高校生の時の寮でルームメイトと一緒になって勉強した時からです。現れた点数の数字に手応えを感じたからです。いや、それ以前に、テスト中に悩まず問題が溶けている自分を見てからでしょうか。

どんな小さな事でも自分の行動の結果がプラスとなって現れると嬉しいですね。そして、その喜びは自身につながるんですよね。そう。自信は後から付いてくるんです。

ということで、今日もまた、自信が無いからと言ってしたいことを諦めるのはやめよう、という話でした。


2016年06月14日(火) 冒険して育つ

先日姉に「◯◯ちゃん(姪)だけでも一人でアメリカへ遊びに来たらいいのに」と言った時のこと。姉が「そうね。その前に英語をもっと話せるようにならないとね」と言ったんです。その時私は(あ、それは違うよ)と思いました。それから自分の数日前までの考え方を思い出しました。

というのは、私はこの春に日本でヨガインストラクターの資格を取得したんですが、アメリカへ戻ってから一度も正式に生徒さんを募集してみたことがなかったんです。当時の私の考えは(もう少し上手になってから生徒さんを募集しよう)でした。そして、そんな自分を疑いませんでした。ところが、この考え方がそう正しくはないことを知る切っ掛けを得たんです。

それは何かというと、ある日、私が登録している、この地域の人が集うグループのウェブサイトで、ハワイからやって来たばかりという女性が、ヨガ生徒さん募集のお知らせを出しているのを見つけたんです。よその土地からやってきてまだ土地勘もないであろうに、その行動力に私の間違いを見つけました。そのうちにとか、もっと上手になったら、とか言っていると私の言う “その時” はやってこないのではないか?! 

がーん!時間を無駄にしてしまった!と思いましたよ。そういえば、作家の五味太郎さんが記事の中で昔「わからないことは動いてみたらわかるのさ」と言っていたのも思い出しました。

今がその時なんだ! そうなんです〜〜〜。今がその時なんですよね。レクチャーさせてもらえる生徒さんを持てることがきっと、インストラクターとしての私の育ちを手伝うんですよ。そんなことに気づいたんですから早速、生徒さん募集を初めました。それに伴ってもっと真摯に練習もしています。

そんな私の、冒頭の姉の言葉への返答は「もしもし〜〜。英語力は、来て冒険することでつくんだと思うよ〜〜」です。
私もヨガレクチャーを通して冒険を始めます。この冒険は私の心の育ちにもつながります。


2016年06月11日(土) なかなか貴重な存在!

昨日、新しい友達が出来て喜んでいます。嬉しいな。ということで今日は友達というタイトルで何か書いてみようかな。

実は私には、幼なじみが居ないんです。高校を卒業した後には故郷を離れましたし、結婚後は転勤族の妻として各地を移動しましたし、離婚後はそれまで住んでいた場所から離れたところへ引っ越したからです。そして今は国外でカレッジへ。出会うのは自分の子ども達と同年くらいの人たちが殆どです。そんな私は、幼稚園の頃からのお付き合い、なんていう言葉を聞くと、そんな関係の人を持ったことがないのでちょっと、そんなに長い時間それぞれの人生を共有する経験をしてみたいなぁとも思います。

しかし、私にも長い歴史を持つ友人達がいます。彼らとはもう10年以上のお付き合いになりますし、心の事を語り合うので<心友>と呼んでいます。ちなみに、心を語り合える<心友関係>の特典は年齢性別住んでいる地域を問わず(今はコンピューターがありますからね)いつでもどこでも本人たちの望む形で時間を過ごせることです。それから、一緒にいるとほんとに楽しくて話題は尽きないんだけど、不思議な事に、お互いに依存しあわないことです。例えば、グループで食事しようかという話になったとしても、「あの子が行かないのなら私も行かない」とか<◯◯ちゃんに一緒に行ってって言われちゃって、ホントは興味ないけど。。。>とかいう小さなジレンマが起きないんです。

 それなら、<友達>はジレンマが多くて疲れるのか?ということですが、そんなことは思いません。知らない世界を知るのは楽しいし、出会う人はみんなそれぞれに私の知らない世界を持っていて聞いていると楽しいし。特に、私にも興味のある自然のことや料理やヨガのことを共感し合える友達と過ごすと、楽しかったなぁ〜〜と思います。だって、自分が確立されていたら何処で誰と話していようと、自分は自分だもんね。

おっと、最後に。。。。

もし今の私達が、今の友達と離れるなんて考えられないと思っているとしたら。。。
仮にその友達たちをなくしたとしても、私達は常に動いているから、新しい友達は又現れてくるんですよね。そしてその友達たちが自分にとっての無二の友達だと感じるんですよね。今の私達が今ある友達たちについてそう感じているように。そして、友達が変われば変わるほど、自分の知らない世界を知る可能性が増えるのだから、友達とか心友の存在って面白いですね。

おっと、もうひとつ。

そして、誰かさんの友達や心友である私たち自身も、その誰かさんの好奇心をくすぐり彼らの世界を広げるきっかけ人の一人なんですよね。私達一人ひとり、なかなか貴重な存在ですよ!


2016年06月07日(火) あるある思考

したいなと思ったりしてみようと思っていたことをやめてしまうきっかけの一つには、しようとしている自分を否定する気持ちがあると思いませんか?私がこの事に気づいたのはカレッジのクラスでグルームディスカッションに参加している時でした。日本語でのミィーティングなら臆病になることはないのに、アメリカ人の学生さんの中に彼らの会話の半分くらい聞き取れる能力の私が一人入って、私としては、彼らの英語を聞き取ろうとするだけで精一杯の状況で、例えば<あ、それはこういうことだと思うよ!>ととっさにひらめくことがあっても、たいていは発言をためらって、ためらっている間に会話は次へ移り、こうして私はかなりの確率で発言のチャンスを逃しているんです。
 
もったいないですよね。これも英会話の機会なのに〜〜。(学科の授業料はもちろん払っていますが)クラスで彼らと会話するということは、ネイティブスピーカーと英会話のフリーレッスンを受けているのと同じなんですよね〜〜。黙って話を聞いているなんて、なんてもったいない!と改めて今思っています。笑。

ということで、どうしてついつい黙ってしまうんだろう、と元を探ってみたら、冒頭に書きましたように、喉元まで来た言葉を「うまく伝えられないかもしれないから。。。」という理由でそのまま飲み込んでしまっているんです。あー、やっぱりもったいないですよねぇ〜〜〜。

そしてもっと自分の生活を見てみると、このように、したいと思うことをやめてしまうケースは結構あるんですよね。なぜでしょう?仮に「きっと出来ないから」とか「無理だよ」とか思うんだとしたらその考えはどこからやってくるんでしょうね。

私の場合は過去に失敗した経験や失敗した時の周りの反応で傷ついた自分のトラウマや、もっと遡って子どもの頃に両親や周りの大人に阻止されていたり、それはするものではないと固定観念を植え付けられたりしていることがあります。きっと、多くの人が同じ経験を持っていることでしょう。

中でも、固定観念とトラウマは厄介です。なぜなら、固定観念というのはたいてい私達がうんと小さくて善悪の判断のできない時から耳に入り私達の肌に心に染み付いていて、それはまるで私達そのもののように私達の行動を左右しているからです。または、固定観念の中だけで生きている自分に気づくことさえ出来ないことがあるんです。

二つ目のトラウマとは、別の言い方をすると、過去の心の傷がいつまでも自分の中に残っていて私達の人生を支配されていることですね。例えば、思い出しやすい場面で言えば、トラウマを受けた場所に二度と行くことが出来なかったり友達と会いたくなくなったりすることですが、もっと遡ると小さな子どもの頃に受けたトラウマをそのまま心に閉まっていることでこちらはもっと大変なことです。なぜなら、思い出せないくらいに小さかった自分が受けた心のトラウマによって出来上がった価値観や、特定の物、人、場所に対する不安感や臆病さ(暗くて狭い場所が怖かったり、大きな声の人にビクビクしてしまったり、一人で居ると落ち着かなかったり。逆に、人と居ると気を使って疲れるとか)について、自分はそんな性格だから、と思い込んでしまうからです。本当はそうではないかもしれないのに。

と、いろいろと書き出したのは私の行動をプラスに変えていくためです。せっかく気付けたのだから成長しなくてはもったいないでしょう?しかしどうやって?

最初の方法は、誰でも知っているように<自分を否定しないこと>ですよね。しかしどうやって?言うは易し行うは難し。

そうです。それならこの方法を使っては?

<ない>を使わないようにするんです。<自分を否定しないこと>と書いたので書き換えて<自分を肯定すること>と書いてみます。

簡単すぎてくだらない感じがしますか?小学生に話しているみたいでいやな気持ちになりますか?

そうですねー。書くのは簡単なんですよね。一度や二度やってみると、わりと問題なく出来ますよね。

しかしこれを毎日毎日、自然にそう思えるようになるまで続けることはどうですか?いくらかの時間と集中力と自分への辛抱を要することでしょう? どんなこともそうですが、継続は力なりといいますね。そうすると、これはきっと、ていねいに取り組んで見る価値のあることではないでしょうか? 

特に辛抱するということ。なぜなら、この取り組みの中には、<どんな自分にも、ない、使わない> というルールがあるからです。例えばうっかり友達や子ども達を傷つけてしまった時も、<自分て良い親になれないな> とか <自分って全然成長してない> という言葉を使わずに <良い親になれる機会を得たよ><たまにはミスもするし、これから成長するっていうサインだわ> と軽く思うということを、1分1秒24時間365日ず〜〜〜っと続けていく。これには毎日の練習と間違っても何度でも繰り返ししてみようと思えること、つまり自分への辛抱を要すると思いませんか?

ちなみに、私は13年前にこれを始めました。最初のうちは、辛抱しきれない自分にあきれたりしていましたが今では(当時から)かなりの確率で私の成長を手伝ってくれています。いろんな面で私は三日坊主だしすぐに気移りするし、諦めるのは得意なんですよ(>ω<)

それなのに、この、'あるある思考'(たった今名前が付きました笑)を続けてこれたのはそれなりの効果があったからかしら。それならば、いちどくらい取り組んでみる価値はあるかも?

私の場合、もちろん13年も経った今でもたくさんの間違いがありますよ〜〜。そしてそれは、これから成長するということなんです。




2016年06月03日(金) 流行について

 昨日友人と、カリフォルニアの人と日本に居る人とのファッションの違いの話になりました。ここカリフォルニアでは、人々はたいてい、特に夏は、Tシャツに短パン、サンダルで歩いています。女性でお化粧をしている人もそう多くはいません。じりじり照りつける太陽からの日焼けさえもそんなに気にならない感じです。所変わって日本では、私達は外に出るとき、たいがい、家にいる時よりは整ったファッションで殆どの女性はお化粧をしてかわいいアクセサリーなんか付けていますよね。暑い満員電車で汗をかいたら化粧崩れが気になって困ります。ビーチサンダルで電車に乗る人なんて海へ向かう日でない限り殆どいないと思います。

友人はこの差について、カリフォルニアでの服装で東京の地下鉄に乗ったら、乗客の中には、この人はホームレスの人か相当生活に困っている人なんだろうかとジロジロ眺める人もいるだろうね、と言いました。私も半ば同感です。長い滞在期間を終えて日本へ帰国する人の中には、「あーもうこんな姿(短パンにTシャツ)で歩けなくなるんだ。。。」と冗談交じりにいう人もいました。

ちなみに、その友人の娘さんはアメリカ生まれアメリカ育ちの現在23歳なんですが、この春に、大学の行事で初めて日本に行ったそうなんです。その旅行から一つの謎を持って帰ってきたそうで、ある日お母さんに「マミー、どうして日本の女の子はみんな同じヘアスタイルしてて、バッグとか服とか似たものばかり持って歩いてるの?みんなが同じに見えて困った」と言ったそうです。私としては、苦笑いというか、的を得た質問というか。20年前の私を思うとよくわかるんですが、(多くの大人も)個性を出しづらい、個を生きづらい社会なんですね。本当に、20代の私はただなんとなく生活していて、自分が誰で、どんなふうに生きたいのかなんて、少しも考えられませんでしたから恥ずかしいです。(余談ですが、私の娘達は自分の将来のことなど私の同年代の頃よりもよく考えている様子が伺えて、素敵なことだなと思います。念の為に書いておきますが、そんな彼らと若くて青かった自分を比較して卑下したりはしていませんよ。笑。)


だけど、私達はどうして個性を作れないんでしょうね。もちろん、集団で生きることをトレーニングされた日本人であることは大きな原因だと思いますが、その他の原因を個人のレベルで見てみませんか?

原因はいくつかあると思いますが、その一つには自分の考え方が定まっていないということでしょうか。自分が何を感じているのか何を考えているのかがわからなくて、他の人に合わせてばかりの自分とか、自分で決めるということができなくて人の意見を頼ってばかりの自分とか、それから、自分なりの考えがあるんだけどその考えに裏付けがなくて自信が持てていない時など。自分のことが自分で決められない上に相手によって振り回されてばかりなのだから困ったものですよね。それから、もっと大変なのは、誰かの考えが自分の考えだと思い込んでいる場合ですね。

一番最後のケースは、流行を追いかけてばかりいる場合に多いと思います。コマーシャルから流れてくるタレントや女優男優さんの言葉をあたかも自分がそのように感じているかのように感じるんです。または、お店に並んでいる服を自分の好みだと思うんです。実際にはその服は、期間限定の流行として並べられてあるだけなのにね。ということは、毎年好みが変わる自分って何なんだろう?と疑問に思うことが流行りに惑わされず、私たち自身の個性を取り戻す始まりだと言えますか?

化粧するかしないか、という点においては私は、笑顔は心から、という言葉をひたすら信頼しているんです。それから、人工的に作られたパウダーやクリームでお肌を覆ってしまったらお肌が呼吸できなくて苦しそうだとも思うんです。皮膚の働きの一つには、”呼吸する”という機能が含まれているのでまんざら嘘ではないでしょう?

「でも、人と違うことしていると目立って恥ずかしい」なんて思いますか? 

本当に?どうだろう?

実は、私は折にふれて娘に(機会があれば息子にも)伝える言葉があるんです。それは、「みんなが同じようにしなくちゃいけないと思っている世の中で、あなたが自分の感じていることを大切にして自由に生きていたら、普段、人と合わせるって大変だなとかもっと自分のいいようにしたいのに思っているのにできないでいるあなたの友人や周りの人は、あなたっていいな、彼女(彼)のようになりたいなって感じると思うよ」という言葉です。

自分を基準にして生きている人は輝くんです。そしてそれが私達の笑顔になる。なぜなら、その時彼らは自分を生きていて心から楽しんでいるからです。ね、恥ずかしくないでしょう?


2016年06月02日(木) 自分の波に乗る

最近度々、社会の波に乗る、ということについて考えています。きっと日本でもアメリカでも又他のどの国でも、多くの人が、一人前になるということについて、仕事を見つけて収入が得られるようになる、という解釈をしていると思います。それは確かに正しいのだけど、この、多くの人の頭を支配している、一般的な«ゴール»は一体どこから来ているんでしょうか。なぜ私達はそう思うの?

一番の影響はきっと育った環境でしょう。私も過去には、自分の子ども達に身勝手な大人の価値観を押し付けてきた本人だったので、よくわかります。親は時に、気づかないうちに、わが子にとって最も危険な大人になれるんです。(でも、親も子も気づいたところから変わっていけるので心配しないで下さい)

それから?

子どもが大人になる過程で多くの時間を過ごす学校で? 学校の先生達にも同じことが言えると思います。

それにしても、どうして殆どの大人が同じような価値観を持っているのでしょうね。それは、彼らも又子ども時代に彼らの親にそのように育てられてきたからですね。つまり、これまで大人社会はずっと、殆どの場合、社会の波に乗るようになるというテーマで子ども達の成長を手伝おうとしてきたのだと思います。

私は、この現象は恐ろしいことだと思っています。なぜなら、もしどこかで子ども達が、または大人も、波に乗れなくなった時に辛い思いをするからです。そして、この現象の最も恐ろしい所は、辛いとわかっていてもそこに留まろうと頑張ってしまったり、又は、抜け出したくてもどうしていいのかわからなかったりして、結局その場に留まるしかないという状況に自分を持っていってしまいがちだからです。そんな状況が続けばある日アルコールや薬に手が伸びてしまったり、病院に行きたくなって、薬に依存して生きることになってしまうこともあるでしょう。たった一度しかない人生が、社会の波に乗れないというだけでマイナスに落ちていくんです。

それならば、そんなふうにならないようにするにはどうしたらいいか。答えは、社会の波に乗らない自分を育てることなんです。言い換えると、«自分を生きる»ということです。他者や社会の価値観を基準にしないで貴方だけが感じることの出来る自分の感覚をひたすら信頼して歩いていきましょうよ。そうすれば、自分の波に乗って生きる自分が育つと思います。


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