「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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トラウマを癒す作業を Healing (ヒーリング) と表現しているのをよく聞きますが以前から抵抗があり、何か他によい表現方法はないのかなと探し始めて5年を経過しています。そんな中、最近読んでいる『Homecoming』(インナーチャイルドの原書) にある「Reclaiming=リクライミング」という言葉が適当ではないかと思うようになりました。 「リクライミング」の意味の一つはオックスフォードアドバンスランナー(英英)辞書では「長い間失っていたものを取り戻す」で、『インナーチャイルド』の中にも書かれていますし、『Homecoming』を翻訳された方は「再生」という言葉を使用しています。和英英和辞書では、オーレックス和英英和辞典によると「〜の返還を要求する。取り戻す。〜を矯正する」という訳で出ています。余談になりますが、辞書によっての表現の違いは面白いですね。 その傍らで、一般的に人々に伝わりやすい単語として目立つのはやはり「ヒーリング」という言葉ではないでしょうか。しかし私の中では、「リクライミング」とカタカナ表記する方が作業の内容と一致していると思うのです。それで日本語よりも英語またはカタカナで表現する方が望ましいと思いました。ということで、私はこれから暫くの間、癒しの作業のことを「リクライミング」と表現してみることにしました。結果はそのうちに機会があれば報告させていただくか、育つ会の中ででも語り合えたらいいと思っています。
2015年07月02日(木) |
夏の取り組み 『HOMECOMING』 |
夏休みに入ったのでオンラインで地球環境のクラスをオンラインで受けることにしました。そうして、この夏の余暇の時間にしようと決めたことは『HOMECOMING』ジョンブラットショー著を読もうということで、読み始めてみるとカレッジのテキストを読むより楽しく意義を感じています。 この本の読書について最も大切なのは読んだことを実行するということ。今年も楽しい夏になりそうです。
2015年06月17日(水) |
Happy birthday |
今日は嬉しいことがありました。10年以上も前からずっといつか娘の一人に伝えられたらいいなと思っていたことを本日伝えることができたのです。そのきっかけを得たのは他の娘達との会話を通してだったので、改めて別の娘達の、型にはまっていない視点や行動力にありがとうと思いました。そして自分自身に対しても、日々の生活のために本当に大切なことを忘れてしまう自分でなくてよかったと思いました。 偶然にも今日は娘の誕生日なのです。生まれてきてくれてありがとう。そして、これからもいっぱい楽しめるといいね。
2015年06月12日(金) |
私の常識は世界の非常識 |
先日栄養学のクラスで、免疫機能を高める方法についてディスカッションしたときに少し驚いたことがありました。私は「冷たいものを食べ過ぎないこと。体を冷やさないことが免疫機能を衰えさせないための一つの方法である」と発言したのですが、この発言に対して講師から“?マーク30個くらい”の反応が返ってきたのです。講師はこの日「人間の体はそう簡単には冷えない」と言いました。私はこのことに関して小さな裏付けがあったのでなんとか説明しようとしましたが、それはまるでどこかまったく違う世界の人々と語り合っている(別の世界の人々ですけれど)ような感覚になりました。と言われてみると、以前どこかで知りましたが、欧米の人々はあまり冷えを感じることがないそうです。もともとアジア人と標準体温の差がありますし、講師の言うことも当然のように思えました。 その日、別のアメリカ人の友人達に尋ねてみたところ、彼らも鍼を知っている人が居る、という程度だったのです。私にとって東洋医学は西洋医学よりも馴染みがありごく当然として捉えていただけに小さな驚きを覚えました。それから、私の知っていることは世界のみんなが知っていることではないのだなと思いました。まさしく、私の常識は世界の常識ではないということです。 その後私なりに考えてみました。私の西洋医学と東洋医学に関する認識は、西洋医学は病気を治療するものであり東洋医学は病気を予防するものです。私の体はまるっきりの健康体とは言えませんし病気はなってしまう時にはなってしまうものだと思っています。そして、それでも病気になったらその回復を手伝える心で生活したいのです。この私の生き方は、東洋医学を利用する方が便利だと改めて思いました。 そして再び、私の常識は世界の常識ではないのです。
『ゲゲゲの鬼太郎』の著者、水木しげるさんが戦時中に残した日記(朝日新聞2015/6/11デジタル版)を読み、戦時中に生きた彼の心境がどんなものであったかを僅かながらに感じました。内容を少し書く必要があると思うので抜粋します。
抜粋;芸術がなんだ。哲学がなんだ。今は考えることすら許されない時代だ。哲学者だろうと文学者だろうと労働者だろうと、土色一色に塗られて死場へ送られる時代だ。/こんなところで自己に留まるのは死より辛い。
当時の政府が彼らの人権を、戦争のためにという理由で完全に無視していた様子が書かれていると思います。 しかし彼は“考える”ということをやめなかったようなのです。
抜粋2:/なにくそ なにくそ どんなに心細くてもどんなに不安でも、己の道を進むぞ。黙れ黙れ、我が道を進むのじゃ。己の道を作るのじゃ。 彼は「殴られても低脳と言われても自分の頭で考えることだけはやめなかった」と後述しています。ここで私の中に疑問が湧きました。何と言われても自分で考えようとする彼が当時にあったのは、それ以前に哲学していた彼がいたからではないかなと。
私も哲学するのが好きです。ちょっとした疑問に向き合っているとき、生きていると感じます。そして、今の時代、一部の国々を除いては考えるということで誰からも避難を受けない時代です。命の危険もそんなに多くはありません。そして、それが当たり前なゆえに考えることをしないまま感情に流されるままに時を過ごしていることがあるのではないか、当然と思っていることをもっとさらによく吟味してもよいのではないかと、考える材料を得た記事でした。
先日、公共の場で授乳することに対する賛否両論のサイトを読みました。興味深かかったのは、各々の背景つまり、性別、既婚者であるか子を持っているか、授乳の経験があるかないか、によって意見がある程度はっきり分かれていたことです。私は以下のように書きました。
まず、授乳という行為は本来は自然なことだけれど、残念ながら授乳中の様子を性的に見る人もいるし、不快に思う人もいるので場所やスタイルに配慮が必要ということではないでしょうか。 私も授乳しましたが、外ではやはり配慮しました。私なりの理由を考えてみると、私はもともと数年前まで、肌を、例えば欧米人の服装のように露出する事そのものに抵抗がありました。これは日本人の文化だと思いますし私はこの文化を基準に、時と場所を選んでいたと思います。スーパーやデパートで、その場で胸を出すことは、日本人は外出する時にはそれなりの服装をしますし、見たくない人もいるでしょうし、これらの理由から抵抗があります。一方、公園や自然の中でのんびりしている時なら、それでも人に見えないように配慮はしますが、抵抗がありませ。自然な光景のようにさえ思います。というより、授乳は本来、誰にも認められてよい自然な行為だと思います。そして、冒頭で述べたようにいろいろな価値観を持つ人がいるので、TPOを考えるということなのだと思います。
思えば、授乳という行為は母になった自分に幸せを感じられる貴重な時間でした。
2015年05月26日(火) |
出来たことを書きだす作業 |
最近、出来たことを書きだす作業の方法が少し細かくなりました。以前は、一行で収まる箇条書きにしていたのですが今はその時の状況を少し丁寧に書くようにしたのです。このようにすることの利点は、書き出し文字として目にすることで改めてその時の状況、自分の行動や気持ちを思い出し自己達成感を感じられることです。良い効果を感じているのでもっと早く気付くべきだったとさえ思います。 ちなみに、出来たことをいつも意識しておくことのメリットは、周囲に巻き込まれず自分を感じて生きられるということです。さらに、マイナスの出来事に出会ったとき巻き込まれる頻度が少なくなると思います。
2015年05月16日(土) |
パブリックでスピーチするという発想 |
先週末、近くのコミュニティで開かれたTEDx へスピーチを聞きに行くチャンスがありました。TEDというのは、カナダのバンクーバー(過去には米カリフォルニア州ロングビーチ、モントレー)で年一回、大規模な世界的講演会を主催している非営利団体のことです。TEDx はTED よりも小規模のため会場は高校で、七つのスピーチを、イマジネーションというテーマのもとに聞きました。出演者達はアメリカ人なのでアメリカの良い未来の為の発想だけれど、その先には ”世界” が映されており、詳しく書けないので申し訳ないのだけれど、それぞれのクリエィテブな発想は聞いていて楽しく、今よりも良い未来を思わせました。そして、テーマがイマジネーションということから私も視聴しながらイメージを浮かべました。実は、四年前に英語を勉強し始めてTEDのことを知ったとき、アメリカ文化そのものの素敵なアイデアだ<私もいつか彼らのようにTED でスピーチにしてみたいな、と思ったのです。 当時私は片言の英語を話せるのみだったのですし、今だって少し成長していますが、まだそれほど多くを語れるようになってはいないのにも関わらず、何という大胆なことを思い、そして今でも思っているのでしょうか。けれど私は当時、真剣に、これはある程度何でも自由に発言のあるアメリカだからこそ出来るのだろうなーと真剣に関心したのです。発言の自由について日本と比べてみると、幾らかの人々は、私もそうですが語るより聞く側になりやすいと思います。ある人は、学校で、職場で、公共のスペースで自分の意見を述べるのを躊躇しがちだと思います。そんな結論付けをした私は真剣に、いつかこのステージで彼らのようにスピーチ出来たらいいなと、やはり本気で思ったのです。人前で話す事の苦手な私がこんなふうに話せるようになったらどうなるの?というような、したことのない事をしてみたいというような好奇心もあったと思います。ということで、その日からTEDはいつも私のコンピュータの中にあったのに、この日の私はその会場に居るではないですか。これを夢の進歩と言わずに何と呼びましょう。そんなわけで、この日の私の頭の中には、もしもそんな日が本当にやってきたら、あれとこれをまとめてこんなふうに語ろう、という発想が出来上がりました。
この事を何度か人に話したことがあるのです。時々本気と受け取ってもらえたり時々相手にしていただけません。そんな時、人々は静かに微笑んでくれるのです。想像の範囲ですが、何と反応してよいのいかわからないというような、そんな冗談なんか言っててというような感じでしょうか。つまり、先は長いのです。年齢制限はないとしても夢で終わる可能性もあるのです。
しかし、いつも変わらずあるのは、人々と語り合ってみたいことやシェアしてみたいことが私の中にたくさんあるということ。この気持ちがいつも心にあるように、プラスに生きようと思いました。それでも実現しなかったら?私の英語レベルから考えると可能性大です。しかし、思っていることが実現しなくても、その過程が楽しかったなら、それでいいと思います。
今日はお散歩をしながら、過去に読んだ本について思い出していました。いくつかの本は、本当に私の心の成長に役立ちました。特に、世間の情報や価値観に惑わされず自分の心を見つめることを推奨している本は、当時読みながら自分のメモに残して折に触れてそこを開き心の中で呟いていたりもしたので、今でもその一節を思い出すことができます。ある一冊の本は当時20歳くらいと思われる若い女の子が書いた、父親との心の距離を縮めトラウマを癒そうとした経験談でしたが、その本は私に<どうしてもどうしても、過去の、子どもの頃に出来なかったことのやり直しをしたい!>と思わせました。別の一冊は、精神科医の視点で心と体のつながりを綴っていたので、自分の体の状態と照らし合わせてそのつながりを実感することができました。別のある本には、子どもの頃の心の傷を癒やす方法が書かれてあり、こちらも徹底的に利用し、当時から10年以上経った今でも持ち歩いて活用しています。 現在はアメリカで英語の勉強をしているために日本語の本をゆっくり読む機会が少ないですし、英語の文章もまだままならない状態なのでどうしても情報に疎くなりがちです。しかし、それでもいつも、本を読みたいなぁと思っています。<読める分だけ書ける>というのは本当だというのは実感済みですし、だからこそ、尚更もっと本を読みたいと思うのです。 良い本を探せるのも一つの能力だと思います。しかし、こちらはあまり育っていないのかな。。。英語版にしても日本語版にしても、魅力的と思える本にはなかなか出会いません。きっと興味の範囲の問題だと思います。というのは、小説よりもドキュメンタリーが好きで、一般の人がよく知っているような有名な作家さんの書く本を読みたいと思ったことがあまりないのです。 ドキュメンタリーを書く人の人生はどちらかというと、大きく成功された方か、厳しい状況を切り抜けた方かのどちらかになりがちだと思います。彼らはその経験を通して人々に伝えたいことがあるから本を書かれたような気がします。実は、過去に自費出版した私の本もその部類に入っていました。私がずっと以前に、ある女の子の本を読んだことで自分の欲求に気付いたように、私の本もどこかで役に立っていたりするといいなあと思います。そして、出版からもう何年も経った今では、2冊目の、未来に書くであろう本に対する気持ちのほうが大きいです。 いずれにしても、もっと良書が読みたい。よし、<やっぱりこれからも良い本を選べる能力を持っていられる私でいよう>と、森をサクサク歩きながら改めて思いました。
2015年05月01日(金) |
心と体と繋がり。サプリメントについて思うこと |
数ヶ月前サプリを買おうとしたことがあったけれど、やはり抵抗があったのです。一旦飲み始めるとやめるのが難しくなることもあるとも思いました。それから、健康の助けになるとしてもそれを一生飲んで生きていきたくなる可能性もあるとするならば、それはおかしな気もしたのです。この思いは、子どもの頃にたった数粒の薬を飲むのに抵抗があった自分に似ています。当時、その薬が苦いとかまずいとかいう理由ではなくて、とにかく体が受け付けなかったのです。自分とは違う何かが入ってくることに体が抵抗したのだと思います。
昨今、多くの人々がサプリで健康を補う習慣を持っているのは何故でしょうか?長く生きたい為?疾患を治す為?もしも健康に生きるためだとしたら、別の方法として、ヘルシーな食べ物を食べ前向きな心で生き、エンドルフィンなどのハッピーホルモン、身体に大切な、そして自分で生産できる可能性の高い物質を自分で作り出せるように意識すという方法がありますが、サプリはこれらに取って代わる役割をするのかな?しかし、仮にサプリがそのように作用するものだとしても、人々はそれを長期に渡って買い続けることが出来るでしょうか? 疾患を治す為だとしたら、私はこれまで大きな疾患にかかったことがないので語れることがありませんが、環境の整理をしたり普段の食べ物を見直したり、最も大切な心の整理をしたりする作業はサプリ摂取に比べてどうでしょうか? ちなみに精神科医アリスミラーはその著書の中で、彼女自身の経験として、心の整理で関節炎が治り人工関節を入れなくてもよくなったと語っているけれど?軽い喘息もちの私も私なりの幾つかの方法で、今のところは悪化しない生活を送れているけれど? 将来私も重い疾患にかかって、こんな風に言っていたことを後悔する日がやってくるのでしょうか?
サプリについて考えていた当時、体と心のつながり、サプリと体のつながりについても深く考えました。心と体のつながりは既に明らかだと思います。では、サプリと体のつながりはどうでしょうか?サプリメントとは体の機能を高めるために摂取するものなのだから、東洋医学の部類に入るのでしょうか?しかし、人は他の動物と同じ自然の生き物だということを思い出すと、人も彼らと同じように自然の食べ物を自分に与えてあげる方がよく、つまりサプリとは本来食べ物で取るべきものがどうしてもうまく摂れない時に利用するものではないでしょうか?
サプリメントは永遠に利用し続けられるものでしょうか?お金があれば少なくとも永遠に買い続けることはできるでしょう。しかし、お金はそういつまでもあるものではないし、買えない時もあるかもしれませんし、お金があったとしても果たして本当に永遠に買い続けることが出来るのでしょうか?大地震が来てすべてのお店がなくなったら?信頼していた会社が詐欺をしていたら?仮に、正しいと思っていた、あなたの体とそのサプリとの相互関係に関する情報が科学の進歩で後々間違いだということになってしまったら?
サプリメントは体の機能向上を手伝う物質というのはあっていますか? 仮にそうだとして、毎日欠かさず飲まなければという観念にとらわれるようになってしまったらそれは何故? 人々がいつもそれを持ち歩き、一泊旅行にさえそれを持っていかなければ不安になるのだとしたら、それはサプリ依存ということになりますか? 仮にそうだとしたら、彼らの依存や不安はどこからやってくるのでしょう? 何より、それがなければ不安になる生活は人にとって当たり前のことなのでしょうか?
そもそも、生きることの価値はどこにあるのでしょう?それは命の長さか質か?私の答えは質です。出来るだけ自然な工程の中で作られた手に入れやすいものをおいしく食べ、日常に小さな幸せを見出し、明日を思って眠りに付く。そんな生活を望む私にとって、サプリメントはやはり、今のところ、異物として映ります。
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