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妻と長男と次男は明日から福島に行きますが、私は今年のお盆休みは福島には帰らな事にしました。当分の間は1人で寂しくなります。そのぶん1日1日を大切にトレーニングに励もうと思っています。食事はカレーを3日間、キムチ鍋を3日間のペースで作ろうと思っています。洗濯は毎日しないといけないのでなかなか大変ですが、合宿のような毎日を過ごそうと思っています。映画もたくさん観ようと思っています。久しぶりに落語を聴きに行こうと思います。カレンダーにトレーニングの予定を書き込みながら、そんな事を考えていました。
子供の頃に好きだった漫画を書いてみようと思います。私は小学3年生の時に「週刊少年ジャンプ」を読んだのが漫画を読むようになったキッカケです。「リングにかけろ」が好きになって、毎週読むようになりました。「キン肉マン」「Dr.スランプアラレちゃん」「3年奇面組」「キャプテン翼」「ブラックエンジェルズ」がその時に好きでした。その後は「風魔の小次郎」「ドラゴンボール」「北斗の拳」「男坂」「聖闘士星矢」「魁男塾」「珍遊記」「とってもラッキーマン」「ジャングルの王者ターちゃん」「幽遊白書」「スラムダンク」「ジョジョの奇妙な冒険」「NARUTO」「HUNTER×HUNTER」とかが好きでした。
叔母の葬儀だったので、久しぶりに父と母と姉と妹と私の家族全員が集まりました。姉も妹も家庭を持っているので、なかなか全員が集まる事は出来なかったりします。1番歳下の妹が48歳ですから、本当に時が経つのは早いです。次男がちょくちょく私の母にLINEをしたり電話をしたりしているそうです。私は全然知りませんでした。母からその事を聞きとても嬉しくなりました。次男は本当に優しくて可愛げがある子です。次男のそう言う部分を私はとても愛しています。今日、長男と2人で並んでいる時に気が付いたのですが、私のほうがまだ少し背が高いのに、ズボンのベルトの位置は長男の方が少し高いです。少し前に長男が髪の毛を切って道場に入って来た時は一瞬、長男と分からなかったぐらいでした。妻も私の事をいつも立ててくれ、私の両親の事も大切にしてくれます。本当に感謝しています。叔母の葬儀に妻と長男と次男が来てくれた事は本当に感謝しています。私がお世話になった人を大切にしてくれる事を本当に感謝しています。叔母には本当にお世話になったので私も涙が止まりませんでした。51歳の男が人前で涙を流すなんてカッコ悪いとは思うのですが、叔母にお世話になった時の事を思い出したり、叔母の写真やお顔を見ると堪えることが出来ませんでした。棺を閉じる時はやはり涙が止まりませんでした。母は叔母とは本当に仲が良かったので気の毒なぐらい悲しんでいました。最後は「ありがとうございました。本当にお世話になりました。」と言う気持ちでした。母と姉と妹は口に出して言っていましたが、私は心の中で思いました。いつも元気で大きな声で笑う叔母の姿は私が生きている間は忘れません。明日から自分がこの世で役に立てる事を、自分が一生懸命に出来る事を、また元気に頑張って生きて行く事が1番の供養だと思うので、また明日からしっかりと頑張って生きて行こうと思います。
本日は2024年東日本空手道選手権大会でした。東京城南京浜支部からは12名の生徒が出場しました。私は叔母の葬儀のため会場に行く事は出来ませんでしたが、みんながとても頑張っていたと報告をもらいました。私がいなくても頑張ってくれた生徒達とご父兄様には心から感謝を申し上げます。葬儀場で叔母の写真を見て、いろんな事を思いました。叔母は92歳でした。とても活発な方でした。私も叔母にたくさん接したので、いろんな思い出があります。叔母の歩いてる姿や笑顔や話している姿を鮮明に思い出す事が出来ます。目を閉じてその時の事を思ったら、なんかその時に自分が戻ったような感覚というか?その時が現在に感じるぐらいその時の事を鮮明に思い出す事が出来ます。その時の自分が今、ここでこうして叔母の葬儀に出ている現在がある事をとても不思議な感じがしました。棺の中の叔母はとても良いお顔をされていました。しっかりと生き切った人の顔だと思いました。叔母は居酒屋とくるまやらーめんを経営していたので、その時の事も思い出しました。私の母は叔母ととても深く接していたので、気の毒なぐらい悲しんでいました。私も叔母にポケットにお金を入れて頂き「困った時に使いなさい」と言われた時の叔母の顔を思い出し涙がでました。
本日、無事に大森道場の11回目の更新を終わりました。道場開設から22年が経ちました。更新の時にお世話になっていた不動産屋さんももう高齢と言う事で違う不動産屋さんで更新を行いました。2年に1度の更新の時だけですが毎回お会いしていたので寂しい気持になりました。22年が経ち、29歳で若かった私も気が付けば51歳のおじさんになってしまいました。でもただのおじさんではありません。子供達より上手に胴廻し回転蹴りもカポエイラキックも出来るおじさんです。筋肉も若い人達に負けてはいません。家に帰宅した時に次男がいて「おかえり」と言われたので、ボディービルで言うマスキュラーのポーズで「ただいマッチョ!」と言ったら冷たい反応で愛想笑いをされました。そんな馬鹿な事も恥ずかしげもなく出来る51歳です。
もう7月も終盤です。8月のお盆休みが終われば一気に年末です。うかうかしていたらあっという間に1歳歳を取ってしまいます。私は極真空手の試合に選手として出場していたので、年齢の1歳の大きさを普通の人より意識して生きて来たと思います。それは夢と目標を叶えるのに期限があったからです。うかうかしていたらあっという間に1歳歳を取ってしまいます。終が刻一刻と近付いて行きます。時間は待ってくれません。あっという間に時は過ぎて行きます。その感覚を今もしっかり持って生きて行こうと思っています。
私の家は日蓮宗です。それもあり私はやはり本当に困った時には何故か、ふと心の中の何処かから「南無妙法蓮華経」と言う言葉が出て来ます。「南無妙法蓮華経」と言う言葉を深く考えた事もありません。でも自分が極限に困った時に、その言葉が自分の心を鎮めてくれます。たぶん私が小さい頃から母が南無妙法蓮華経と唱えていたから、その言葉が自分に力をくれると思ったのだと思います。私は神様を信じています。神様が何なのかは分かりません。でも神様がいないはずはないと思っています。私が命や神様について考えさせられた作品があります。遠藤周作の「深い河」「沈黙」「海と毒薬」「イエスの生涯」中村文則の「教団X」「何もかも憂鬱な夜に」です。私は一生懸命に宗教をやっている訳ではありませんし、命についてや神様について考えても答えは出ないので、ただ無になって瞑想する時間を大切にしています。
基本稽古の蹴りを全種類30本ずつ蹴れるようなりました。子供達より高く蹴り、子供達より速いペースで蹴れるようになりました。私の号令に最後まで付いてこれた人は誰もいませんでした。夏季短期集中セミナーでも胴廻し回転蹴りの見本を見せる事が出来ました。来月の8月21日で股関節を人工関節にして1年ですが、ここまで来れるとは自分でも思っていませんでした。手術のあと痛みが無くなりリハビリを開始した時に、偶然リハビリを見た妻に「元通りに歩いたり出来るようになるの?」と言われました。私は「分からない。今はとりあえず普通の生活が出来るように頑張ろうと思う。でも例え車椅子になったとしても杖をついて歩くようになったとしても、自分には知識があるから空手を教える事は出来るから安心して。」と言いました。私は自分で奇跡を起こしたと思っています。私は未来を変えたと思っています。せっかく起こした軌跡ですから、自分がこの世から消える日まで、この身体を自分の人生を生き切るために使います。この身体を家族のために使います。この身体を極真空手のために使います。
自分は頑張っている。そう思える毎日を過ごしたいと思います。自分は成長している。そう思える毎日を過ごしたいと思います。51歳はもう死んでいてもおかしくはない年齢ですし、もう大きく成長出来る年齢なのかもしれません。でも私は諦めたくありません。諦めて坂を転げ落ちるのと、諦めずに自分の足で坂を下りて行くのは、例えそのスピードが同じだったとしても、決してそれは同じ事ではないと私は思っています。自分は何歳まで生きるのだろう?そう考えない日はないぐらいそれを考えます。自分は何歳まで元気でいられるのだろう?そう考えない日はないぐらいそれを考えます。自分が不安になったり迷いが出た時に私は瞑想をしています。そして道場に着いたら私は瞑想をして呼吸法をして型を行って立禅をして柔軟体操をして、心と身体を整えています。11ヶ月前の股関節の手術で死をみぢかに感じてから私は自分の人生観が大きく大きく変化しました。その変化は良かった事もあれば悪かった事もあります。でも元の自分に戻る事は出来ません。自分を受け入れて生きて行くだけです。今日も1日、自分に厳しく頑張りました。お盆休みは福島には帰れなくなってしまいましたが、ゆっくりとお酒を飲む時間を作りたいと思います。
母のお姉さんで私にとっては叔母となる方が亡くなったと、母から連絡がありました。私の叔母への思いを残すためには叔母との思い出を書いておこうと思います。叔母は私にとても優しい方でした。母と少し似たところがあり、とても厳しい一面を持っていましたが、私にはとても優しく接してくれました。30日に両親と姉と妹と私でお見舞いに行こうと思っていたのですが、残念ながら本日他界してしまいました。とても残念です。叔母との思い出はたくさんあります。1番覚えているのは、私が21歳の時に親戚で集まった時に、私が歩いていると、私のズボンの後ろのポケットに叔母がお金を入れてくれました。私は何故かそれを母と間違い「いらないよ」と言ってしまいました。振り返って叔母だと気が付き「すいません」と言ったら、叔母は優しい顔で「困った時に使いなさい」と言いました。若かった私はたぶん何かを食べたりして使ってしまったと思いますが、今思い出しても叔母の優しさに感謝しています。東日本大震災で原子力発電所が爆発した日には、叔母と私の両親と妻と長男で山梨県の甲府市に避難しました。その道中もなかなか大変だったそうです。私が20歳で福島を出て東京に上京する時に仲間達に送別会をしてもらった場所は叔母がやっていた居酒屋でした。特別にいろいろサービスして頂きました。叔母とは親戚の中では1番多く接したのではないかと思います。叔母と最後に会ったのは東日本大震災の時に避難した山梨県甲府市の叔父のお寺でとなりました。叔母は震災のあと地元の千葉に戻られたのでお会いする事も無くなってしまいました。叔母には何度もお金を頂いたり本当にお世話になりました。本当に心から感謝しております。本当にありがとうございました。
kanno
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